2021年2月19日(金)の手紙

2021年2月19日(金)


『ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。』マタイによる福音書8章8節


第7章の終わりに、「群衆はその教にひどく驚いた」とある。
ここの「ひどく驚いた」という言葉は、新約聖書の中では13回も出てくるそうである。
これは非常に特色のある言葉で、そのうちの12回は神とイエスの業に対し、用いられる。

私たちの経験や学問や想像などでは考えられないような神の業に群衆は驚いたのである。

学問的なものはほかへ行っても聞けるが、権威ある者の教え、それがイエスにはあった。
権威というのはただいばっているということではなくて、むしろその反対に仕えていくという姿において示されていくものであると思う。

イエスの教えを聞き、群衆は感動のるつぼに入れられていた。

ところが聖書は、すぐに「すると、そのとき、ひとりの重い皮膚病を患っている人が……」と書く。
「すると」というのは大事な言葉である。

みな、イエスの教えに感動し、喜びに満ちて山を下りる。
しかしその下りてきた下界はまさに問題山積みの世界であったのだ。
そこには、重い皮膚病に冒され、苦しみ、差別された人たちがおり、また中風の人がいる。
山を下りたら、この世の現実が渦巻いているのである。

私たちも実際そのような信仰生活をしているのではないか。
教会の礼拝堂に入り、おごそかなオルガンの音に心を落ち着け、讃美歌を歌い、聖書を読み、説教を聞き、宗教的行事に参加することによって、心も清らかに、この世のどこでも経験できないものを経験する。

しかしひとたび玄関を出、門を出ると、そこには、問題山積みの現実の世界があるのだ。
そういう中にあって、イエスとは、また信仰とはいったい何であるか。

重い皮膚病の人は、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言い、百卒長は、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言い、姑の病気がいやされることについては、人々がイエスに頼んだとある。

そのように、現実の中で一人一人が、イエスに求めていった。
信仰とはこのように、神の言葉に対してまともに生きていくこと、まともにそれを信頼していくことである。

イエスが私たちに求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、神の言葉にまともに生きていくかということである。

私たちの現実は、山上の垂訓の現場ではなくて、山から下りてきたところにある。
その厳しい現実の中で、イエスに出会い、神にしっかりと依り頼み、期待をおくのである。
そのとき、私たちは神の御業を拝することができる。

信仰者は、神の御業を今日の時代において拝する者である。
そうでなければ、信仰者の生きていく意味はない。

God Bless You!!


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