2021年2月18日(木)
『門をたたく者はあけてもらえるからである。』マタイによる福音書7章8節
「門をたたく者はあけてもらえるからである」。
私は、この「からである」というところが大事であると思う。
求めたならば与えてやろうというのではなく、与えられているのだから求めなさいということが、この「からである」の意味なのではないか。
私たちは、魚釣りを釣り堀でしても、ふろ場ではしない。
私たちが神に求めるのは、プールやふろ場で釣り糸をたれるようなことをしているのではないはずである。
ところが私たちは神に求めてもむだなことのように思い、なんと神に求めることが少なく、神の門をたたくことが少ないのであろうか。
私たちは、天からの管がおりてきているのに、その管からものをいただかず、地上をはいずり回り、人に求めて失望し、物に頼んでそのはかなさをかみしめる。
私たちは、すでに与えられているから求めていくのであることを覚えたい。
だから神にはできないことはないという深い信頼を持って神に求めていくべきである。
そのとき神は、人知を超えた御業をなしてくださる。
そういう神の栄光を拝し仰がなかったら、いくら本を読んでも、牧師の話を聞いてもだめである。
しかし神に信頼していくとき、人から「あれはひどい変わり者だ」などと言われることがある。
それが「命の道は狭く、細い」ということである。
神を本気で信じていくとき、道は広くない。
わいわい騒いでいる人たちといっしょに行きたいと思っていたのでは、命の道を行くことはできない。
神はないかもわからない、なくてもよいではないか、私はそれでも神を信じて生きるのであると、神にいっさいをささげ、生涯をかけていくことこそが大事である。
しかしその道を見いだす人は少ない。
そこに信仰者の闘いがある。
同じ信仰者からも批判、誤解、嫉妬、排斥などを受けることがあり、不信の者から迫害、敵意などを受けることがある。
しかし、どんなに厳しい道であろうと、「主はわたしの牧者である」と告白するのだ。
平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、細い道になれば彼は一匹ずつ抱いて広いところへ連れていく。
草原がなくなれば必死になって緑の野をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。
そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかるのだ。
広いところにいたならそのことはわからない。
狭い門から入ってはじめてわかるのである。
一生懸命聖書を読み、御言葉を信じ従っていくことは、不信との闘いである。
信仰するということはこの不信仰との闘いである。
人はみな神を信じられない自分と毎日闘っている。
どんな人でも毎日毎日、神を信じられない自分と闘っていくのである。
God Bless You!!
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