2021年2月17日(水)の手紙

2021年2月17日(水)


『まず神の国と神の義とを求めなさい。』マタイによる福音書6章33節


第6章は、施しのこと、祈りのこと、断食のこと、富のことなど具体的な問題かとり上げられている。

1節から4節までのところを、よい行いをするには自分の中でも知らないほどにこっそりとしなさいということに強調点をおいて理解する人がある。

しかしイエスは倫理の教師ではない。
イエスが強調しておられるのは、天の父の報いを第一に求めなさいということである。

地上でどんなに称賛されても、神からの報賞を受けそこなっては何の意味もない。
神からどのように迎えられるか、どのように喜ばれるかということが信仰の中心であるから、そのことを大事にしなさいと言うのである。

私たちは銀行には預金をし、それを楽しみにし、安心したりするが、天に宝を積むことになると、できるだけ少ないほうがよいという思いがどこかに働く。
それは、天とか神に対する関心、思いが非常に軽いからである。
これが自分にとっていちばん大事なものだと思っていないからである。

最大の関心事が金である人には、金が神である。
私たちにとっての最大の関心事は神であるということを見落としては、このメッセージは私たちに伝わってこない。

あなたはいったい何をもって最大の関心事としているのか。
天国に行くとか、あるいは神の子とせられるとか、神によって義とされるとかということをいちばんたいせつにしているのか、それとも、地上の宝のほうがやはり大事だと思っているのか。

「あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」

この澄んでいるということは、一つを見つめるということである。
神の前に自分が報いを受けるということが最大の関心事であるというふうに神にその焦点を向けていくとき、目が澄んでくる。

しかし「目が悪ければ」、焦点が合わなければ、生活全体もぼやけたものになってしまう。

スポルジョンは、「天にまで携えていけないもののためにあまり熱心になるな」と言った。
死んだらもう終わりというもののために熱心になっても意味がない。

人間が一度は死ぬこと、そして死んでのち裁きを受けることは定まっている、と聖書は記している。
私たちは、必ず神の前に立たなければならない。
その神の前に立つ時に価値のあるものを携えて立つことができるかどうか、そのことをこそ最終の目的としなければならない。

私たちは旅人である。
その旅の最終の目的は何であるか、すなわち神の国と神の義とを求めることが私たちの最大の関心事であることをしっかりとわきまえて毎日の生活を律していかなければならないのだ。

私たちが信仰しているのは、終わりの時、裁きの前に立たなければならないことを信じるからである。

God Bless You!!


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