2021年2月15日(月)
『御霊によって荒野に導かれた。』マタイによる福音書4章1節
第4章には、イエスの荒野の試み、宣教の始め、弟子たちの召命、いやしなど、豊富な内容が記されている。
イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という天からの声があった。
おまえはわたしの心にかなう者であるという神の保証を得たのであるが、それからイエスは、悪魔によってではなく、御霊によって荒野へ導かれ、試みを受けられた。
だから私たちも、現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。
試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。
「四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた」とあるが、モーセも四十日断食をした。
イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよった。
エリヤは神の山に行くのに、四十日の旅をした。
このように旧約聖書には、四十年、四十日ということがよく出てくる。
この言葉が出てくるときは必ず試みの時である。
しかしそれはまた、神の啓示を受ける時でもある。
使徒行伝に「そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ…」とあるように、その荒野の試みを受けたことを、パウロは「はぐくみ」を受けたと記している。
「試み」は実は「はぐくみ」の時なのである。
試練を受けることは、その苦しみにおいて神の御心が示される時なのである。
そういう点でも私たちは、荒野に出て試みを受けることを恐れてはならない。
とかく私たちは、できるだけ損をしないように、苦しいことは避けて通り、楽なことだけしようとする。
聖書を読むとか、祈るとか、信仰の証しをするとか、神のすすめに従って愛の業をするとか、そういうことをできるだけ少なくしていこうとする生活をしていたのでは、そこには試練はないし、はぐくみもない。
神がどんなに私たちを愛してくださっているかということもわからない。
私たちの信仰は探究の信仰でなく、啓示の信仰だと言われている。
神を尋ねていくのではなく、神から示されたものを受けとっていく信仰である。
受けとっていくのは私個人であって他人ではない。
牧師がこう言ったから、ああそうか、というような人まかせの信仰ではだめである。
神はいまでも私たちを試みようとされるが、それを避けていたのでは、自分に対する神の啓示を受けることはできない。
御霊によって荒野へ導かれていくことを、恐れぬ者となろう。
God Bless You!!
a:44 t:1 y:0