2021年12月7日(火)の手紙

2021年12月7日(火)


『さて、十二時になったときさ、全地が暗くなって、午後三時まで統いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』マルコの福音書15章33節〜34節


十字架にかけられたキリストの御苦しみは、午後の3時に至って絶頂に達しました。

この日、金曜日の午前9時より午後の3時まで、主イエスは十字架にかけられていました。
その6時間の御苦しみ、十字架上の激痛は私たちの想像以上のものでした。

両手、両足を打ち貫いている鉄釘の痛み、からだの重みで引き裂かれる両手の肉と骨、重ねられた両足にかかる全身の重みからくる激痛、次第に失われていく血のしたたり、容赦なく照り続ける灼熱の太陽。

キリストのおからだは、人間として生きることの極限に達していたのです。

しかし、主イエス・キリストにはそれ以上の苦しみがありました。
それは、人類の罪を負って、罪人として神の御前より捨てられねばならないことでした。

主イエスは、永遠の初めより、父なる神との絶えざる交わりの中に生き、歩んでこられました。
この汚れと罪に満ちた世界に、その第一歩を踏み出されたとき以来、父なる神との交わりは絶えることがありませんでした。

群衆の指導者たちのあざけり、憎しみの中でも、主イエス・キリストと父なる神との交わりは、常に緊密に保たれていました。

それが今や、失われようとしていたのです。
それは人間の罪、私たちの罪のためです。

「わが神、わが神。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

ここに、私たちは三つの驚くべき事実を見ます。

第一は、この御苦しみをあえて許したもうた父なる神の慈愛です。
それは、私たちを愛したもう神の愛の現れなのです。

第二に、人間の罪の恐ろしさを示していることです。
神にそむき、罪を犯した人間の罪は、死をもって償われねばなりません。

主イエスが私たちの罪を負って神の御前より捨てられたもうたように、私たちは当然自分の罪のゆえに神より見捨てられねばなりません。
主イエス・キリストは今、罪人として私たちの代わりに、神の御前より捨てられたのです。

第三に、主イエス・キリストのご愛を知ります。
罪のないお方が、罪人である私たちのために、惜しげもなくご自分のいのちを投げ出し、この御苦しみを最後まで受けてくださったのです。

これこそ贖罪のご愛でした。

何ということでしょう。
この時、神は最愛の父ではなく厳しい裁判官として私たちの罪をキリストの上に置かれました。
主キリスト、神の聖き御子は今、審判者である神によって罪深い者、罪そのものとして断罪され、神の御前より捨てられてくださいました。

レビ記にあるアザゼルの山羊のように、聖き神の御前より捨てられてくださったのです。
「ああ、主は愛なり」

God Bless You!!


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