2021年12月27日(月)の手紙

2021年12月27日(月)


『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』マタイの福音書11章29節、30節


キリストが与えられる安息には二つあります。

その第一は、マタイの福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます」といわれている安息です。

これは、心の重荷、罪の重荷をもっている者が、主イエス・キリストの十字架の贖いによって与えられる安息です。

しかしイエス・キリストはさらに進んで、もっと深い魂の安息を約束しておられるのです。
それは、キリストのくびきを負うことによって与えられる安らぎです。

多くの人々は、このすばらしい安息にいたらないで、ただ、生活の労苦、罪の赦し、悲しみや悩みの一時的な解決だけを求めて、キリストのもとへ行きます。

ところが、キリストはさらに幸いな魂の安息を約束しておられるのです。
それは、キリストとともに、キリストのくびきを負うときに与えられるものです。

第一に、キリストに学ぶことによって。
キリストは「心優しく、へりくだっている」と言われましたが、これは、キリストがすべてのことの中に、神の御心を第一として、全くご自分を明け渡していた御姿を語っておられたのです。

自己を磔殺し、我意を捨てた柔和さ、謙遜さを表しておられます。

私たちが、このキリストに学び、自我を捨て、我意を、我執を捨てて、キリストに学ぶとき、そこにはいまだかつて知らなかった、深い魂の安らぎを味わうことができます。

第二に、くびきは負いやすい。
キリストが私たちにくびきを負わせられるとき、それは、私たちがひとりで負うのではありません。

「わたしのくびき」といわれています。
そのくびきの片方はキリストが負っておられるのです。

くびきとは十字架のことです。
キリストのために受ける試練も、困難も、キリストが共に負ってくださいます。

第三に、わたしの荷は軽い。
クリスチャンは神のものです。
キリストのものです。

キリストが私たちに何かの荷を負わせられるとき、それはいつも御心の中にあるのです。
主の御許しなくしては一つも、私たちに重荷は与えられません。
私たちがキリストのために十字架を負うとき、喜びをもって主とともに負いたいものです。

それは何という懇ろな主のご配慮でしょうか。
私たちの人生の一つ一つの出来事のなかで、いつも主は共にいてくださる。

私たちの心の中に、また私たちの傍らに、何という温かい主のお取り扱いでしょう。
いつもクリスチャンはひとりではない。
大きな神の愛の中に、そして共にいてくださる主の御愛に支えられているのです。

「主よ、お従いします」と喜びをもって従いましょう。

God Bless You!!


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