2021年12月20日(月)の手紙

2021年12月20日(月)


『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」』マタイの福音書16章24節


多くの人々は、キリストの福音を聞き、キリストを信じます。
しかし、その信仰生活が長く続きません。

その理由はどこにあるのでしょうか。
それは、キリストに従う態度が欠けているからです。

信仰は服従につながっています。
信じたなら、従うのが当然です。
従うときに実が結ばれ、成長があるのです。

主イエス・キリストは、信じるとともに、従うことを要求しておられます。
しかし、このキリストに服従するには、次の三つのことが必要です。

第一に、自分を捨てることです。
これは容易なことのようですが、むずかしいことです。

私たちはだれでも、自分を捨てることを好みません。
この自分を捨てきれないところに悩みがあるのです。

第二に、十字架を負うということです。
これも、人間の好むところではありません。

私たちは安易な道、安楽な方向へ進むことを望んでいます。
ですから、だれでも十字架を負うことを避けたいのです。

第三に、キリストに従うことです。
人間は従うことを好みません。
これが堕落した人間性の本質です。

しかしキリストは、この私たちに、ご自身の御心に従うことを求めておられます。

ですから、「十字架を負い、わたしについて来なさい」とのおことばは、私たちには至難のように思えます。
事実、困難なことです。

しかし、主イエス・キリストの十字架を見上げるとき、それは容易にできます。
キリストは、私たちに命令だけを与えられはしないのです。

キリストのおことばは、命令とともに約束、能力をも与えてくれます。
私たちがキリストとともに死んでおり、キリストとともに生きているならば、キリストのいのちの能力は私たちのうちに働いているのです。

それは、復活の力であり、聖霊の力ともいうことができます。

ゴルゴタの十字架ののちにペンテコステの聖霊の降臨があったように、キリストの十字架によって、聖霊は私たちのうちに住み、宿って、十字架を負い、キリストに従う力となってくださいます。

私たちのうちに宿られる聖霊は、キリストを十字架に導いた力です。
それは十字架の霊なのです。

この力によって、私たちは十字架を負うことが喜びとなり、服従することが楽しみとなります。
これが、主イエス・キリストの恵みであり、福音の力です。

確かに、主は弟子たちに大変むずかしいことを命ぜられました。
しかし、ここに大きな福音の奥義があるのです。

私たちが「十字架に死ぬ」ということがわかると、私の自我や努力ではなく、心と霊の内に住みたもう主、聖霊が、私を助け、喜びをもって十字架の道を歩むことができます。

「内住の主」栄光の望み、この方によって生き、歩むのです。
これが福音です。

God Bless You!!


a:36 t:1 y:0