2021年12月2日(木)の手紙

2021年12月2日(木)


『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。』ヨハネの福音書15章9節


聖書は、神と人との関係、キリストとクリスチャンの関係を、さまざまなたとえで書いています。
父と子、羊飼いと羊。

ここではぶどうの木と枝にたとえています。
そして、キリストは木であり、クリスチャンはその枝であるといわれています。

木と枝は離れることのできないものです。
枝は木に連なってこそ、葉を茂らせ、実を結ぶことができます。

キリストは、枝である私たちに、ご自分にとどまり、連なっているように命じておられます。
そして、その木こそ、いのちの源泉、愛の本源であると語っておられます。

キリストの愛は、私たちのためにいのちを捨ててくださった愛です。
それは、第一に、「父がわたしを愛されたように」、です。

キリストが、私たちを愛してくださった愛は小さいもの、低いものではありません。
それは、父なる神がキリストを愛されたような大きく、深く、また高いものでした。

父なる神と子なるキリストとの愛の交わりは、永遠の初めより分かつことのできないものであり、また無限に続くきよいものでした。

神はキリストを愛し続けておられました。
その驚くほどに深く、そして尊いご愛をもって、今も私たちを愛していてくださるのです。

第二に、「わたしもあなたがたを愛しました」、というのです。
神がキリストを愛しておられるのと同じような愛をもって、キリストも私たちを愛してくださっています。
その愛は、すでにキリストの十字架の上に現されているのです。

私たちがたとえどのような状態にあるとしても、それにかかわりなく、無限の広大な愛をもって、私たちを愛し続けてくださっています。
そこには、罪の赦しもあり、罪のきよめもあるのです。

第三に、「わたしの愛の中にとどまりなさい」、ということです。
私たちは、この主イエス・キリストのご愛の中にとどまるべきです。
このご愛のうちにいるべきです。

このとどまるということばには、住む、満足するという意味があります。
私たちクリスチャンは、キリストのご愛の中にいっさいをゆだねて、そこに安息すべきなのです。
このキリストのご愛に満足すべきなのです。

キリストから目をそらし、この世のもの、すなわち地位名誉、金銭肉欲等に心が奪われるとき、それは罪人の道であり、滅びに行く道です。

キリスト以外に目を留めず、ただ主イエス・キリストのみに信頼し、彼を愛し、彼の愛の中に生活する、これこそクリスチャンの真の姿であり、祝福の道なのです。

「わたしの愛の中に」と言われる主イエス・キリストの御手の中に、すべてをゆだねることを学びましょう。
それは、過去の罪は一つも残さず悔い改め、主の十字架の愛を信じることです。

God Bless You!!


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