2021年12月16日(木)
『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。』ローマ人への手紙6章6節
私たちは、しばしばあまりにも罪深い自分の姿に驚き、悲しむものです。
使徒パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、嘆いています。
私たちは、罪を犯すから罪人なのではありません。
罪人だから罪を犯すのです。
私たちは、この罪の性質をもっています。
これを肉ともいい、古い人、罪のからだともいいます。
しかし、感謝しましょう。
キリストのあの十字架は、この悩みを解決してくださったのです。
私たちが主イエス・キリストの十字架を仰ぐとき、そこに、私の古い人、罪のからだが十字架につけられています。
そこに、私たちの罪の源は死んでいるのです。
それは、第一に、キリストとともに葬られているのです。
私たちが、主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたとき、キリストの死にあずかったものとして、私たちの古い人は葬られてしまいました。
すなわち、私たちの古い人は死んで、葬式をしたのです。
第二に、罪から解放されているのです。
イエス・キリストと死んだ者は、もはや罪とのかかわりあいがなくなりました。
罪より解放され、自由になったのです。
それは、もはや罪を犯す必要もなく、罪にとらわれることもないからです。
クリスチャンのある人々は、「私たちは一生の間、罪から離れることができないものです。
それで、罪を犯すことはやむをえないのです。
そして、信仰生活とは、毎日罪の悔い改めをすることです」と考えています。
しかし、これは正しい考え方ではありません。
クリスチャンは罪から自由になった者として罪に打ち勝つことができるのです。
罪の牢獄から解放されているのです。
そして再び罪を犯す必要はないのです。
第三に、キリストとともに生きるのです。
キリストとともに死んだ者は、キリストとともに復活し、キリストとともに生きることができるのです。
それは、キリストとともに新しいいのちの生活を始めることです。
クリスチャンとは、キリストとともに生きている者なのです。
ですから、私たちのからだを、神の前に義の器としてささげるべきなのです。
ここが福音の奥義です。
多くの人々はこの奥義を知らず、理解せずに、敗北の道を歩いています。
私たちは「キリストとともに死んだ者」、そして今「キリストが私のうちに生きていてくださる」者であることをよく理解し、信じてください。
私たちの罪はすでに赦され、審判済みです。
今は、復活の主が聖霊によって私たちを宮とし、住居として王座を占めていてくださるのです。
主のご支配に従いましょう。
God Bless You!!
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