2021年12月14日(火)の手紙

2021年12月14日(火)


『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』ガラテヤ人への手紙2章20節


キリスト教はキリストの十字架によって始まっている、といっても過言ではありません。
クリスチャンの生涯もキリストの十字架を信じる信仰から始まりますが、神の勝利あるクリスチャンの生涯は、キリストとともに自分が十字架につけられたことを知るところから始まるのです。

多くのクリスチャンは、神を信じ、キリストを信じて、罪が赦され、義とされる幸いを受けながら、それでいて失敗の多い信仰生活を送っている人があります。
それは、自分がキリストとともに死ぬという、さらに深い十字架の真理を把捉していないところにあるのです。

使徒パウロは、イエス・キリストのご在世中の御姿に触れたことはありませんでした。
しかし聖霊によって、この驚くべき真理を啓示されました。

「キリストとともに十字架につけられた」と。

クリスチャンはイエス・キリストを信じたとき、実はキリストとともに死に、古い人は葬られたものなのです。

人間のさまざまな問題の根底にあるもの、悩みの原因となっているものは、自我、すなわち私たちのうちにあるエゴ、堕落した人間の腐敗性です。

今日まで多くの宗教家、哲学者たちも、この問題の解決を求めて苦心してきました。
しかし、その真の解決を見いだすことはできませんでした。
それは、主イエス・キリストの十字架において初めて、その解決を見ることができたのです。

これは、第一に、自我の磔殺です。
私たちが自分自身を、自分で殺すことではありません。
あのイエス・キリストの十字架にこそ、私たちは殺されているのです。
そこに私たちの我意は打ち砕かれています。

第二に、自己の破産です。
人間は誇りをもち、うぬぼれています。
自分が神による被造物であることを忘れて、自分の力量、才能、手腕で生きているように思います。
これは人間の思い上がりです。

しかしイエス・キリストの十字架は、人間が神の御前に無能なものであり、無力なもの、のろわれたものであることを宣告しているのです。

第三に、自己の放棄です。
キリストとともに死ぬ、ということは、そこに自分を明け渡し、神の御手に、自分自身を投げ出していることを示しています。

クリスチャンが、キリストとともに死ぬということがわかるまで、真の勝利はありません。
キリストの十字架によって、罪の赦し、義とせられる義認の恵みを知ることができます。
そして多くのクリスチャンは、この恵みで満足して、そこにとどまります。

しかし主はさらに進んで、ご自分とともに私たちが死に、キリストとともに新しいいのちに生きるクリスチャンを望んでおられるのです。

使徒パウロはこの奥義を知りました。
それはキリスト内住の奥義です。
これが彼の生涯の大きな祝福となり、その生涯の能力の源泉であり、宜教の主題となりました。

God Bless You!!


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