2021年12月10日(金)の手紙

2021年12月10日(金)


『イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。』ルカの福音書23章46節


ついに、主イエス・キリストの十字架のみわざは終わりました。
人類の罪を負われた十字架の御苦しみは、今終わろうとしています。

ここに至って主イエスは、大声で叫んで言われました。
「わが霊を御手にゆだねます」と。

この時、主イエス・キリストはご自身の霊を、全能の、また慈愛に富まれた父なる神にゆだねられました。

十字架に釘づけにされた主イエスには、もはや何のわざをもなすことがおできにならず、また今、最後の息を引き取ろうとされる時、何の働きもなすことができなかったのです。

そこには、ただ信頼あるのみでした。
主イエスは、すべてを神の御手にゆだねられました。

主イエスは、ご自身の最期にあたって、私たちに信仰の奥義を啓示されました。
神に対する信仰とは、神にいっさいを明け渡すことです。
自分の思い、自分の行為をやめて、ただ、全能、慈愛の神の御手にゆだねることなのです。

十字架は、そこに自分が死に、神ご自身にすべてをゆだねることの奥義を、私たちに示しています。
ここにクリスチャンの勝利の秘訣があるのです。

多くのクリスチャンは、イエス・キリストの十字架を仰ぎながら、十字架の奥義を知りません。
そのため、豊かな奥義の中におりながら真の勝利を得ておらず、キリストによる真の自由をもっていません。

クリスチャンにとっては、主イエス・キリストの十字架の贖罪を信じるとともに、この十字架の奥義を知ることがたいせつです。

「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と、私たちも、主イエス・キリストのように、私たちのすべての問題を、天の父なる神の御手にゆだねること、これほど安全な道があるでしょうか。

なぜなら、
神は、第一に全能のお方だからです。
神は、第二に全知のお方だからです。
神は、第三に慈愛に富んだお方だからです。

神のなされることは、人間の知恵や思考をはるかに越えてすばらしいことです。
人間の目にはどのように見えても、それは、私たちの願望、想像をはるかに越えているのです。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、……天が地よりも高いように……わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と。

教会の歴史の中で、最初の殉教者はステパノでした。
たぶん、彼は主の十字架の刑をはるかに見ていた一人ではないでしょうか。
そして彼も殉教の日、主が語られたように語りました。

それ以後、いかに多くの人々が、主のように「主よ、御手にゆだねます」と申し上げて、御国に凱旋したことでしょう。

私たちもそのようにありたいものです。
生きる日も、召される日も、「主の御手にゆだねつつ」歩みたいと願います。

God Bless You!!


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