2021年11月9日(火)の手紙

2021年11月9日(火)


『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』エレミヤ書33章3節


ハンマーを熱心に使うことによってのみ、石は砕かれるので、石工はいつもひざまずいて働きます。

勤勉というハンマーをにぎり、ひざまずいて祈りなさい。
祈りと信仰を働かせるとき、決して砕かれない石のような教義はひとつとして聖書の中にないと理解することは、あなたにとって有益です。

「十分に祈ったとは、十分に学んだことだ」と、いみじくもルターは言いました。

あなたが何をするにせよ、祈りの挺子の力で、道を開くことが可能です。
思索と理論が、いわば真理への道を開くことのでき鋼鉄の楔なら、祈りは、聖なる奥義の鉄櫃をこじ開ける梃子挺子です。

天の御国は今でも襲撃されていて、侵略者たちは力ずくで天の御国を手に入れようとしています。
祈りという力ある道具を用いて、絶えず働き続けるようと努めるなら、あなたは無敵です。

聖徒は、祈りに傾注することによって、より深い経験を実感したい、そして、より高い霊的生活をさらに知りたいと願うでしょう。

霊的生活の成長は、みな同じように容易に到達できるわけではありません。
悔い改めと信仰には、みなに共通のあり方がありますが、歓び、霊的交わり、キリストとの一体感には、より高次の領域もあるのです。

すべての信仰者はキリストを理解しますが、みなが釘の跡に指を差し入れるわけではありません。
すべての信仰者が、イエスの御胸に寄りかかったり、あるいは第三の天に引き上げられたりする特権をもつわけではありません。

ほとんどのクリスチャンは、経験という川にくるぶしまでしか入っていません。
幾人かのクリスチャンは、ひざまで流れに入って歩きました。
少数のクリスチャンは、肩まで水に入ります。

ところが、ごく少数のクリスチャンは、川底に足が届かないほどの深さがあって、そこで泳げることを知るのです。

神に関する事柄の経験的な知識には、慧眼や哲学的思考の及ばない、いくつかの高みがあります。
理性や分別という子ライオンの、まだ通ったこともない、奥まった小道があるのです。

ただ神のみが私たちをそこに導いてくださいますが、神が乗せてくださる馬車と、その馬車を引く炎のような駿馬とは、力ある祈りなのです。

主イエス様。
どうかあなたの愛なる流れのさらなる深みに導かれ、あなたをさらに知って、ますますあがめることができますように。

アーメン


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