2021年11月8日(月)の手紙

2021年11月8日(月)


『教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。』エペソ人への手紙3章21節


この聖書箇所に見られるのは、祈りではなく崇拝です。
使徒パウロは、崇拝をしたのです。

崇拝は、賛美の行為というよりも、むしろ、賛美は当然のものであり私たちにできる以上のものであるということを十分に理解することなのです。

私は、崇拝をどう言い表したらよいものか、ほとんど知りません。
賛美は、ある一つの対象に向かうべく、両側に土を盛り上げた水路を、楽しそうに流れている川のようなものです。

ところが崇拝は、その同じ川が、どの堤防からもあふれ出しており、たましいに浸水して、その大水で全自然を覆っているのです。

それでいて、これら崇拝の流れは、あたかも安寧の深みにじっとしているかのようで、動いているわけでも揺れているわけでもなく、まるで鏡のように凪いだ海に夏の陽射しがきらめくように、水面に、その輝きを落とす栄光を映しているのです。

崇拝は、神の臨在を求めておらず、むしろ、ことばに言い表せないほど神の臨在を意識しており、それゆえ、あたかもその波に聖なる御足が触れたのを感じたときのガリラヤ湖のように、畏敬と平安に満ちているのです。

崇拝は、賛美の高さと深さ、長さと広さが極限まで充実したものです。

私は、崇拝とは星空のようなものだと思います。
星空は、そのきらめきで、つねに神の栄光を物語っていながら、しかも「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない」からです。

それは、たましいの雄弁なる沈黙であり、満ちたりすぎて、ことばで言い表せないほどなのです。
満ちたりすぎてことばも要らないほどの完全さです。

へりくだって、ちりの中にひれ伏しつつも、高尚な思いをいだいて高く舞いのぼることです。
自らの虚しさに沈みつつも、神の十全さに満たされるほどに大きくされることです。
いかなる目論みも持たず無心でありながら、あらゆる可能性が潜在していることです。

神にあって我を失うこと、これが崇拝です。

私たちはこの神聖な務めのために、もっと多くの時間を聖別すべきです。
恵みの御霊がひんぱんに私たちを忘我の境地に連れていき、神とその卓越した栄光のみを意識するようになるまで、もろもろの小さな思い煩いをすべて超越させてくださるように、私たちが、もし日々祈るようになるなら、それは私たちの最高の豊かさになるのです。

どうか神が私たちを神性の深い海に投げ込んでくださり、そうして私たちが神の広大さにおいて我を忘れ、「ああ深遠なるかな!」と驚嘆しつつ叫ぶのみとなりますように。

他のすべてから目をそらし、ひたすら全能の主なる神と小羊イエスに目を向けましょう。
このお方のみを重んじ、このお方に栄光を帰しましょう。

永遠なる神に、栄光がありますように。
あなたはとこしえに神であられます。
あなたの御霊の満たしの中で、我を忘れさせてください。

アーメン


a:29 t:1 y:0