2021年11月22日(月)の手紙

2021年11月22日(月)


『イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」』ヨハネの福音書4章48節〜49節


王室の役人の場合で注目してほしいのは、求める信仰によって、役人は祈りに熱心になったのみならず、あきらめなかった点です。

役人はひとたび願いましたが、きっぱりと断られただけでした。
それでも不機嫌になって顔をそむけたりはしませんでした。

決して、しなかったのです。

役人は言いました。
「主よ。下って来てください」

それをどのように言ったか私にはわかりませんが、きっとたましいを震わせるような口調で、目には涙をため、両手を合わせて嘆願の態度であったと思います。

まるでこう言っていたように思われるのです。
「私の子どもを救いに来てくださるまで、あなたをどこにも行かせません。
どうかお願いです、来てください。
なんと言えば、来てくださいますか。
どうか父親の愛情に免じて、お願いいたします。
もし私のことばが足りないなら、この目の涙をごらんになって私の真意をお汲みとりください」

求める信仰によって導かれる祈りは、なんと力強いことでしょう!

かつてヤコプがヤボク川でなしえたように、時には全力を尽くして神に嘆願する人もいると聞いたことがあります。

たましいの悲嘆に暮れている罪人が、恵みの門に押し入ることなく立ち去るどころか、むしろ恵みの門の柱を、まるで深い基礎から引き抜こうとするかのように、つかんで左右に揺さぶっているのを、私は見たことがあります。

罪人たちが、天の御国に入らないどころか、入るためににじり寄り、つきまとい、競い、戦い、格闘するのを、見たこともあります。

神の御前でしらけた祈りをする人々が、平安を見いださないのは当然です。
祈りを、願いという炉に入れて激しく熱するなら、燃えて天まで立ちのぼるでしょう。

「神よ、私のような罪人をあわれんでください」と、通り一遍の形式で冷淡に言うだけの人々は、決してあわれみを見いだすことがありません。

嘆願を聞き入れられる人とは、「神よ、この私のような罪人をあわれんでください。
この私を救ってくださらないなら、私は滅びてしまいます!」と、激しい苦悶を心におぼえつつ叫ぶ人です。

天国の門にいたる道にたどり着く人とは、祈ることばのひとつひとつに、たましいを凝縮させ、みずからの激しさを投影させる人です。

求める信仰によって、このような人になれるのです。

聖霊様。
私の心をかき立て、祈りを熱く燃え立たせてください。
どうか今日、恵みの柱が揺さぶられますように。

アーメン


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