2021年11月19日(金)の手紙

2021年11月19日(金)


『天にいます私たちの父よ。』マタイの福音書6章9節


いわゆる子としてくださる御霊……すなわち父を認識させ、愛するようにさせる、喜ばしい御霊とはなんでしょう。

その答えは説明できるものではなく、あなた自身が子となれば、そのときにわかります。
また、「子としてくださる御霊によって、私たちは、アバ、父と呼びます」とはなんでしょう。

その答えは説明できるものではありませんが、あなた自身が感じたなら、わかります。
それは喜ばしい複合体であって、含まれているものは、神が父であることを知る信仰と、神を父として認識する愛と、神を父として与えられている喜びと、父であるゆえに背くことにおびえる恐怖と、神を頼りにする大胆な愛情と信頼です。

そして、それら自体が全面的に神によってもたらされます。
それというのも、聖霊の誤りないあかしにより、天と地の神である主はまことの父であることが、わかるからです。

あなたは子としてくださる御霊を経験したことがありますか。
天の下には、このようなものは他にありません。
そのような子としてくださる御霊を喜ぶこと以上に喜びに満ちたものは、天国そのものを除いては、他にありません。

逆風が吹き、不幸の波が立ち、船が岩礁に向かって旋回するとき、「私の父よ」と言い、その力強い御手がかじを握っておられると信じることは、なんと喜ばしいことでしょう!

生ける神の御霊に導かれ、ためらうことなく「私の父よ」と言うとき、そのことばには、御国の持つ至福の本質があり、妙なる調べがあり、雄弁に語る力があります。

ですから私たちは、このお方のみもとに近づくのです。

私は父に語りかけるとき、誤解されはしないかと恐れたりしません。
少々うまく言い表せなくとも、父は私の意図を汲んでくださいます。

幼子であるなら、つたない片言で話すことも時にありますが、それでも父親は理解してくれます。
もし私たちの祈りが少々切れ切れで、まとまらない内容であっても、ほかならぬ私たちの父は、耳を傾けてくださいます。

ああ、祈りの始まりが「私たちの父よ」であるとは、なんということでしょう!
その祈りは欠けだらけであったり、愚かしいものであったり、願い求めるべきでないものを求めようとするものであったりするのですから!

主は私たちの心の願いと意図を理解してくださいます。
子どもが父親のもとに来るように、私たちも主の御座に近づこうではありませんか。
そして聖霊が教えてくださることばで、私たちの必要や悲しみを言い表そうではありませんか。

聖霊様。
天にいます父にこれほど深く愛されることが、どうしてありうるのでしょうか。
神の子であることは私の喜びです。

アーメン


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