2021年11月13日(土)の手紙

2021年11月13日(土)


『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』ヨハネの福音書15章7節


祈りは、イエスにとどまる人々から自発的になされます。
祈りは、イエスとの交わりにおいてたましいが自然にほとばしり出ることです。

ぶどうの枝から葉や実が生じるとき、心して努力することもなく、ただぶどうの幹との生ける結合のゆえにそうなるように、イエスにとどまるたましいから祈りは芽を吹き、花を咲かせ、実をつけます。
星々が輝くような自然さで、イエスにとどまる人々は祈ります。

「時間になったから祈りの務めにとりかかろう」と自分に言い聞かせたりしません。
むしろ、賢い人が食するように、すなわち食欲あるときに食するように、イエスにとどまる人々は祈ります。

「祈るべきなのだが、祈りたくない。
祈りは何と退屈なことだ」と、束縛された思いで叫んだりしません。

恵みの御座に喜ばしい用事があるので、喜んでそこに行くのです。

キリストにとどまる心は、炎が燃え立って火の粉を吹くように、嘆願の祈りを発します。
イエスにとどまるたましいは、祈りで一日を始めます。
空気のように日がな一日祈りに取り囲まれ、夜には祈りつつ眠りに落ちます。

そのような人々は、喜んで次のように言えるのです。
「私が目覚めるとき、私はなおも、あなたとともにいます」

日常的に願い求めることは、キリストにとどまることから出てきます。
キリストにとどまることで結ぶ実の中には、祈りにおける自由も含まれています。

あなたは今までに、時には祈る力のないままにひざまずいたことはありませんか。
思うように嘆願できないと感じたことはありませんか。

あなたは祈りたかったのですが、水が凍っていて、どうしても流れなかったのです。
祈る意志はあったのですが、祈りにおいてその意志を表す自由がなかったのです。

それならば、友に語るのと同様に神に語れるような、祈りにおける自由を得たいと思いますか。
ここにその方法があります。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい」

ただ祈りのことばの流暢さに関して、自由を得ると言っているのではありません。
そんな事柄は、とても劣った賜物です。
流暢さはいかがわしい才能であり、とりわけ思考の重みや感情の深みがともなわない場合はなおさらです。

長々と祈る信仰者もいますが、まことの祈りは長さでなく、重さで計られます。
神の御前での一言のうめき声が、長く唱える祈祷よりも、祈りの豊かさを備えていることもあるのです。

イエス様。
今日あなたにとどまらせてください。
祈ることは私の喜びです。

アーメン


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