2021年10月8日(金)の手紙

2021年10月8日(金)


『わたしはアルパであり、オメガである。』ヨハネの黙示録1章8節


黙示文学があらわれるときというのは、自由に語ったり、自分の言わんとすることを直接に表現できないときである。
それは迫害の時代である。

黙示という言葉は、示すという意味を含んでいるが、神の側から一方的に示されるとか、隠れていたものがあらわにされるということである。
あらわにされたとき、隠れていたものはこんなものであったのかということがわかるのである。

私たちの世界にはわからないことが多い。
「今知らず、後知るべし」という言葉がよく言われるが、神の御心や神の言葉が隠されているからわからない。

しかし、それがわかる時が来る。
それが世の終わりの時である。

黙示録は再臨の主と新しい天と地とを待ち望みつつ書かれたものである。
それは必ずやってくるものであって、架空のものではないという信仰こそが、キリスト教信仰なのだ。

だから、いまの世界をなんとかよくしていこうということが、キリスト教信仰の唯一の目的のように言いだすと、それはキリスト教信仰、聖書の信仰からそれてくると思う。
いまの世界は不完全な世界であり、完全な世界は神によって来るものである。

だから私たちは神が来られるように祈り、信仰生活をしなければならない。

たとえどんな偉い人間が来ても、またすばらしい制度ができても、それには影がある。
51人には良くても49人には悪いというものがある。
どんな政治や制度にも不平不満があり、抑圧されて犠牲となる者は絶えない。

だから、私たちはただ主が来られるのを待ち望むのみなのだ。

「マラナ・タ(われらの主よ、来たりませ)」。
主よ、御国を来たらせたまえ、と。

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」。

黙示録には、これらの言葉がよく出てくる。
アルパというのはアルファベットの始めであり、オメガは終わりである。

私たちは神によって生まれたのであるから、神はアルパである。
私がここにいる根源は、神の御心によるのであるから、神はオメガである。

私たちは子どもが生まれるとおめでたいと言うし、だれかが死ぬと悲しいことだと思う。
しかしそれは神の支配を考えていないからである。
私たちは神によって生まれ、神によって死ぬとすれば、生まれることも死ぬことも同じである。

私たちはイエス・キリストにある神の愛によって基礎づけられ、そして私たちのなしていくいっさいが、神の憐れみと慈しみによってととのえられ、用いられていくという考え方を持つときに、積極的に生きていくことができるのだ。

それが私たち信仰者の生活である。

God Bless You!!


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