2021年10月7日(木)
『イエス・キリストに守られている召された人々……。』ユダの手紙1章1節
「父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ」。
「守られている」とは、キリスト信徒として本来の姿である。
キリスト信徒とは、自分がすばらしい生活をしているのではなく、ただ誘惑やつまずきなどから守られているのが真実の姿である。
よく人につまずいたと言う人がいる。
あの信者につまずいた、あの牧師につまずいたと言うと、いかにも自分は正しかったのにあの人のゆえにこうなったという意味になるが、他方から言えば、イエスの守りからもれたということでもあるのだから言わないほうがよい。
イエスの守りの中に私たちがいつも置かれていることを感謝しているならば、そういうつぶやきは起こらないはずである。
「わたしたちが共にあずかっている救について……」。
「共にあずかっている」という言葉は、ユダの手紙に出てくる特色ある言葉である。
私だけが救いにあずかっているのでなく、「共にあずかる」ということには、たいせつな二つの意味がこめられている。
一つは「共に」であるから、その人がだめになるなら、全体がだめになるという意味である。
その人の痛みや欠点をみなが自分のものとしていかなければならない。
そうなると、みんなお互いに気をつけ合おうということになる。
この連帯が「共に」という意味である。
私たちが神の救いにあずかるには、一人のふぞろいがあってもならないということである。
「主は約束の実行をおそくしておられるのではない。
ただ、ひとりも減滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」の御言葉どおり、神は一人でも滅んでいくことを悲しまれ、すべての者の悔い改めを待っておられる。
これが「共にあずかる」のもう一つの意味である。
神の側から見ての、一人一人の人間に対する神の目である。
私たちから見るとあんな人はいくら神様でもと、自分のことなど考えずに他人を批評する。
けれども神は、どんな一人一人に対しても同じように愛を注いでおられるのだ。
たとえ子どもが親の期待どおりにいかなかったとしても、親は決して身を引いたり投げ出したりはしない。
そのような子に対してこそ愛が注がれるというものだ。
ひたすら一生懸命に引き戻そうとする。
私さえよければよいという信仰は成り立たないのである。
常に私たち全体の信仰を主は求めておられるのである。
伝道、そして周囲への祈りは、実は私の信仰のためのものでもあることを忘れてはならない。
God Bless You!!
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