2021年10月4日(月)の手紙

2021年10月4日(月)


『すべて神から生れた者は、世に勝つ……。』ヨハネの手紙第一5章4節


「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である」。

コリント人への第一の手紙では、「神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」とパウロが言っている。

どんなに学問があっても、宗教的な修練を積んでも、そういう人間の努力によって「イエスは主である」、あるいは「イエスはキリストである」という告白はできない。

聖霊を受けなければ、イエスをキリストであると信じることはできないのだ。

「だれも」という言葉は、どんな人でも聖霊を受けなければだめであり、逆にどんな人でも聖霊を受けさえすれば、キリストと告白することができるということである。

それは非常に厳しい道であるとともに、また無限に広い道でもある。

教会がペンテコステを大事にし、あるいは聖霊が信仰生活にとってたいせつなものであるということは、私たちの信仰がそこから出発したものだからである。

「神から生れた者は、世に勝つ」。

世に勝つとはいったいどういうことか。
この世は暗いというのはあたりまえのことであって、この世が明るいと思っているのは錯覚にすぎない。

なぜ暗いのか。
それはみなが自分本位に生きているからである。

やみは光を吸い取る。
吸収していくところにやみがある。

人間はみな自己中心的であって、自分に益のあることはするが、益のないことはしない。
私たちが人の益になる間は、人も愛してくれたり、親切にしてくれたりするが、人の役に立たなくなれば、うとんじられる。

それが世の常である。

そういう世界の中だけに住んでいれば、私たちは失望落胆するほかはない。
しかし、イエス・キリストが何の価値もないこの私を愛してくださったということがわかると、失望落胆しなくてすむ。

これが世に勝つということである。

私たちはこのイエス・キリストの中に包まれることによって、慰めと励ましを受けて、この世知辛い冷たい暗い世の中に勝っていくことができるのである。

しかし、信仰は冷たい世界から逃げ出すものではない。
冷たい世界から逃げ出してきた者が、もう一度そこへ出かけていくものである。

信仰は逃避だと言う人があるが、人間はだれしも逃避することなしには、この厳しい世を生きていくことはできないのではないか。

ただ信仰は、その逃避した者が、そこから立ち上がって再び自分の立つべきところ、生きるべきところに進んでいく力を与えるものであり、これこそがほんとうの信仰なのだ。

キリスト教は、逃避してきた者をもう一度送り出すものである。
神の愛を知ったときに、世に帰っていくことができる。
このことが世に勝つということである。

God Bless You!!


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