2021年10月31日(日)の手紙

2021年10月31日(日)


『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の烏を見なさい。』マタイの福音書6章25節〜26節


私たちはいつも、いらぬ心配をするものです。
イライラしたり、ビクビクしたり、疑い深かったり、すぐ恐くなったりする人々もいます。
みずからをペシミスト(悲観論者)と認めていなくとも、ペシミストは、あちらこちらにたくさんいます。

そんな人にとって、災いはいつも差し迫っており、一寸先は闇なのです。
鳥といえば不吉なフクロウかカラス。
ハクチョウを思い浮かべても、黒いハクチョウだけです。

もし今日が雨なら、明日も必ず雨、その次も、そのまた次も雨、そして十中八九、大洪水になるだろうと考えます。
あるいは、もし今日が晴れなら、明日も乾燥した日になり、それが何ヶ月も続き、ついには大地とすべての草地が干ばつでだめになるだろうと考えます。

そのように考える人は仕方ないのですが、クリスチャンはそうあってはならないと私は思います。
なぜなら、次のように主のみことばが明らかに約束しているからです。

「自分のいのちのことで、心配してはいけません」

信仰者にとって、思い煩いは禁じられたものであり、そしてまた必要のないものです。
天におられる御父が顧みてくださるならば、どんな小鳥でさえ、世界中どこででも大麦の二粒さえ持っていなくても枝でさえずっているというのに、あなたは恥ずかしくなりませんか。

神が空の鳥を顧みてくださるゆえに、鳥は思い煩うことなく生きています。
私たちもそのように生きようではありませんか。

主は思い煩いが役に立たないということも教えられました。
なぜなら、私たちはどんなに心配しようと、自分のいのちを一刻たりとも延ばせないからです。

イライラと心配したからといって、それでどうにかなりますか。

雨の降らないことを農夫が嘆き悲しんだとして、どうなるものでしょう。
農夫が気をもめば、天の給水栓が開きますか。
最善を尽くして、あとは思い煩いを神にゆだねるほうが、かぎりなく賢明です。

用心することは賢明であり、それは手段を目的に適ったものにします。
しかし心配することは愚かであり、それは悩みと呻きをもたらすばかりで何の益もありません。

加えて、「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」。

御国の相続人は、この世の人より高い理想をめざして歩もうではありませんか。
神を信頼しないのは、幼稚で恥ずべきことです。

神を信頼できないとしたら、自力でどうにかするほうが首尾よくできるでしょうか。
自分の力よりむしろ、「神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っている」ほうがまさっているのではないでしょうか。

父なる神様。
私の心の目を開いてくださり、あなたがどのようなお方かを理解させてください。
私は思い煩いをあなたの御足もとにゆだねます。
アーメン。


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