2021年10月3日(日)
『イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ている……。』ヨハネの手紙第一4章2節
ヨハネの第一の手紙が書かれた背景には、ギリン哲学によって影響を受けたグノーシス派があった。ギリシャ哲学の一つの特徴は、肉とか物質とかいうものはけがれており、神に受け入れられないものであるとする考え方である。
物質と精神、肉体と霊というように二つに物を分けて考える。
肉体は精神を捕らえている牢獄であるとして、肉を否定する。
これが最も極端に走ったのが、イエスは肉体を持ってこの世に生まれたのではないというグノーシス派の考えであった。
イエスは肉を持っていたが罪を犯さなかったというのが聖書の立場である。
そういう中で、イエスが肉を持ってこの世に生まれたことを否定するのは、キリスト教信仰を根本的な面で大きな危険にさらすものであった。
イエスがエリコの町へ行かれたとき、ザアカイという人の家に入られた。
人々は、イエスが罪人の家に入って客となられたと言って失望した。
しかしイエスは、ザアカイを救うために彼の家にお入りになった。
そのようにイエスは肉を持ってこの世に生まれ、この世の私たちと同じ生活をしなければ、私たちを救い出すことができなかったのである。
だからイエスの受肉は私たちの救いにとってたいせつなことである。
しかし神にとってはこれほどの苦しみはない。
ザアカイの友となるということは、彼と共に重荷を負うことである。
この世では、だれかが成功すると、栄光を一緒に受けたい人が集まってくる。
しかし失敗すれば、薄情なもので寄りつかなくなる。
イエスはその反対であった。
罪人であるザアカイと友になったのである。
イエス・キリストが肉体を持って来られたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであるとは、こういう意味である。
またここでは、もう一つのことを考えなければならない。
哲学は知性を根底に置く。
わからないことをそのままにしておく哲学はない。
それに対して信仰は、悟性というか、悟り、あるいは霊というか、人間の持っている限界を超えた力を基礎にしていくものである。
だから、信仰には不信がなければならない。
不信があるところに信仰があるのであって、何もかも料理して不信がないようにすれば、それは信仰ではなくて、哲学になってしまう。
そういう神秘の世界というものが信仰には必ずある。
私たちは、たとえばだれかに出会ったというような日常の出来事でも、神の御心であるというふうに神秘的に解釈するわけである。
しかし、この霊とか神秘とかがことさらに拡大されると、迷信になるなど弊害が生まれてくる。
イエスがキリストであることをはっきりさせてくれる聖霊だけが私たちの喜びであり、そうしてくれる霊こそほんとうのものである。
神秘性に力を入れるのはキリスト教の本質ではない。
God Bless You!!
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