2021年10月28日(木)の手紙

2021年10月28日(木)


『人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。』ヨハネの黙示録21章4節


「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

人生は、いろいろな涙の谷をくぐっていかなければならない。
そのときに、だれが私たちの涙をぬぐってくれるだろうか。
自分が悩み、苦しみ、悲境に陥ったときに、なお支えてくれ、強めてくれる人こそがほんとうの友である。

少し旗色が悪くなると、もう自分は知らないというようでは、ただ人を利用しているだけで、ほんとうの友達ではない。

よく自分はあの人が困っていたときに、いろいろ尽くしてあげたが、自分が困ったときにあの人はあまりよくしてくれなかったなどと言う。

しかし、それは誤解であって、自分がしているときは十分しているように思うが、相手のほうにすれば、そこに距離を感じている。

そこで自分はこうしてほしいと思っても、相手がそういうふうにしてくれないと不満が出てくるのだが、それが人間の持っている悲しさである。

人間の中にほんとうの友人を求めていっても無理である。
この人こそ自分の友達だと思っても、それは幻想にすぎないのだ。

そういう中でいったい、ほんとうの友達とはだれか。
自分の魂を注ぎ出していったとき、それを受け止めてくれる人、涙をぬぐってくれる人はだれなのか。
そういう人を持たないで、自分の生活が平安であるとか、無事であるとか言っても、そんな人生は決してほんとうの平安ではない。

キリスト教信者には、だれにも持っていけないものをイエスに持っていくことができるという特権が与えられている。
そこに私たちの喜びがある。

だれも私たちの涙をぬぐってくれる人はいない。
その悲しさの中にあって、神が人の目から涙をまったくぬぐいとってくださる。
この経験が与えられるところに、キリスト教信者の喜びがあり、誇りがある。

ある人が私に言った。
自分はイエスによって罪がゆるされ、愛されている。
そのことを知ったときに、人からどんなにひどいことを言われても、それが心に刺さらなくなった、と。

これは死もなく痛みもないということである。

この世でひどい言葉が言われない世界を求めてもそのようなものはない。
そんな中で生きているのが人生である。
思いがけないことに喜び、また悲しむのが人生である。

涙もあり、雨の降る日も、曇りの日もある。
しかし、そのところで、それがもはや死でもなく、悲しみでもなく、叫びでもなく、痛みでもないという、それらを超えていく生活がある。

私たちには、人の目から涙をぬぐいとってくださるかたがおられるのだ。

God Bless You!!


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