2021年10月22日(金)の手紙

2021年10月22日(金)


『神の立琴を手にして立っているのを見た。』ヨハネの黙示録15章2節


「またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。
そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。
彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った」

これはモーセが紅海にさしかかったときのことを想像しているのであろう。
イスラエルの人々は、エジプトを脱出して紅海にさしかかったが、前は海、後ろはエジプトの精鋭に追われるという、進退きわまった状態に追い込まれた。

それは神の起こされた災害であった。

イスラエルの人々が出会った紅海での苦難は、それによって彼らが訓練を受けるとか、信仰が鍛練されるとかいうようなものではなく、彼らがまったくだめになってしまうほどのものであった。

いったい、どのようにしてのがれたらよいのか。
そこでは彼らの信仰が試されたのである。

飛行機は離陸のときがいちばん力の要るときである。
イスラエルの人たちも神の言葉に従ってエジプトを離陸したときが、いちばん大きな試みを受けたときであった。

言うならば、さまざまな欲望を持っていた人間が、それらをいっさい断ち切って神の言葉に従っていく始めというものが大事なのである。

その苦難の海を通ってはじめて、神の立琴を手にして立つことができる。
すなわち神を賛美する世界が生まれてくる。

ひるがえって、私たちの信仰生活にはなぜそのような喜びがないのか。
それは私たちがこの火の試練を避け、またそこまで至ろうとしないからである。

この神の僕モーセの歌というのは、出エジプト記の第15章に出てくる、神の恵みをほめたたえた歌である。
それをなぜ黙示録の記者はここに出してきたのか。

それはいつの時代でも、どのような場所でも、神の御言葉に従って生きていく者は必ず神の立琴を手にして立つことができるということを、証明するためである。

私たちは、イスラエルの人々がほんとうに紅海の水を、陸地を歩くように渡ることができたのだろうかと疑いの目を持って見てしまう。
しかし私たちが御言葉に従って、具体的な生活の中で出エジプトに等しいことをしていくならば、イスラエルの人々と同様の経験を持つことができるのだ。

そこに私は、モーセの歌がここに記されているゆえんがあると思う。

神の言葉に従って大胆にエジプトを出ていけば、いまも神は海を二つに分けてくださり、荒野にマナを降らせ、あるいは岩から水を出してくださる。
私たちにとってほんとうに大きな喜びは、今日においても神の立琴を手にして立つことができることなのだ。

God Bless You!!


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