2021年10月17日(日)の手紙

2021年10月17日(日)


『もう時がない。』ヨハネの黙示録10章6節


第10章は幕間のようなものだと言われる。

「彼は開かれた小さな巻物を手に持っていた。
そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして」とあるが、これは全宇宙を支配するということである。

第1章9節に「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」とある。

孤島に一人身を隠しているこの人は、この世的に考えるなら非常に小さい存在である。
しかしその、人の目にも映らないほどの小さな人がいま示され、聞いている言葉は、海と陸とを踏みしめておられる者の言葉なのだ。

そのとき彼の聞いたことが、二千年このかた、ヨハネの黙示録として、人々の心に光や望みや平安を与える働きをしてきたのである。

もし私たちが聖書を通して神の言葉を聞く者となるなら、今日の時代にどんな大きな働きをするよりも、どんな学者よりも、どんな社会革命家よりもすばらしい存在とされるということを、もっと誇らなければならない。

それは、クリスチャンだからこんなことができると胸を張るのではなくて、自分に託されている宝がすばらしいということのゆえに、この世に対して堂々と生きていくことである。

私たちが聞いているものがどんなにすばらしいものであるかを自覚し、そこから使命を覚えていかなければならない。

「もう時がない」。

なんという切実な言葉だろう。
私たちはまだ時があると思って生きている。
しかし聖書は、もう時がないと言うのだ。

私は肝臓の病で入院して検査を受け、じっとしていたらまだ生きられるかもしれないが、だいたい二年ぐらいではなかろうかと医者に宣告されたときに、私自身に対する考えが変わった。

こわれかけの茶碗のように、そっと置かないとちょっとのことでも割れてしまう。
そういう状態であると言われたときに、私の価値観は転換した。

私には時が限られたのだ。
時がいつまでも続くと思うから、あまり価値のないものにも一生懸命になる。
神の恵みを思うとき、自分をささげていく残された時がないという切実な迫りこそが、終末に対する生き方なのだと思う。

まだ長く生きるのだからそんなに一生懸命にならなくてもと私たちはよく言う。
そうして不完全な一日一日を送っている。

あすのことを思いわずらうから、きょうがいいかげんになってしまう。
あすは神にゆだねて、きょう一日神の前に真剣に、また情熱を持って生きることに私たちは努めていかなければならない。

もう時がない。

この言葉を毎日覚えながら、神の前に時を過ごしていきたいと思う。

God Bless You!!


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