2021年10月14日(木)の手紙

2021年10月14日(木)


『彼らは地の四方の風をひき止めて……。』ヨハネの黙示録7章1節


黙示録の書かれたころは、世界は平板な正方形のようなものと考えられていた。
その世界の四つの隅に御使いが立って、「彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた」と書いてある。

日本のようなそよ風とは違って、ここの風はアラビヤから吹いてくる熱風で、一度それが吹くと木も草もすべてのものが枯れてしまうという、恐ろしい死の風のことである。

そういう風を御使いが押しとどめているというのである。

「また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た」とある。

当時、自分の所有の動物や奴隷などに、一生逃げられないよう印を押していたように、神がご自分の所有とされるものに印を押していたということである。

パウロが「イエスの焼き印を身に帯びているのだから」と言っているのは、イエスの奴隷であるということで、ここで書かれている印とはそういう意味である。

神のものとされ、ととのえられていくまで風が押しとどめられている。
つまり、世界の中で救われるべき人が救われるまでは、御使いたちがいろいろなものを押しとどめ、救いに至らしめるということである。

イザヤの言葉の中に「主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ」とあるが、これは神を求めることができるときに一生懸命神を求めておきなさいということである。
そのときが過ぎれば、求めようとしてもできないのである。

神は必要になったらいつでも得られるというようなおかたではない。

どんなことも互いに忍び合う状態であってこそ、心に通い合うものができてくるように、神と私の関係も、他人行儀でなく、何もかも洗いざらい申し上げ、常に助けをいただく生活、愛し慕っていく生活をしていくことがたいせつである。

しかし、いくら神が来られても、私たちのほうでそういうことに素直になれない面がある。
私たちが神のものとされるには、ある程度の期間が必要である。

そういうときに神は、自由に神を求めることができるように、そのような生活に至るまで、御使いたちを用いて、私たちを守っていてくださる。

地の四隅を御使いたちが守っていてくれるということは、信仰生活をしていく上で忘れてはならないことである。
神のものとして進んでいくとき、神は私たちを災いから守ってくださるという確信を持たなければ、私たちの信仰は、ただ、たたずむ信仰、聞き流しの信仰に終わり、ほんとうの信仰の喜びを味わい知るまでには至らない。

そういう意味で、主を求めることができる間というのは、神が守っていてくださるのであるから、大胆に真剣に神を求めていかなければならない。

God Bless You!!


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