2021年10月10日(日)
『あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず……。』ヨハネの黙示録3章8節
第3章は、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤの三つの教会に書き送られた言葉が記されている。
三つの教会の中で、ヒラデルヒヤの教会だけは責められるところがなかった。
いったいどんな教会だろうかと私たちは思うが、それに対して「わたしは、あなたのわざを知っている。
見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。
なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」と書いてある。
この世では、私たちの力によって優劣が決まっていく。
しかし神の前には、力があるかないかは問題ではない。
問題なのは、その人が神の言葉をどのように守っているかである。
守るということはしがみつくということであり、神の言葉にどんなにしがみついているか、またどれだけ望みを置いて生きているかということなのだ。
「わたしの名を否まなかった」というのは、どんなことにおいてもキリストを信じ、キリストに依り頼んで、キリストが自分の生きる源であると知っていたということである。
これは、ほんとうに私たちの慰めの言葉である。
金も、力も、知恵も持っていたラオデキヤの教会にくらべ、ヒラデルヒヤの教会は、力の小さい人たちの集まりであった。
しかし神はヒラデルヒヤの教会には、だれも閉じることのできない門を開いておいてくださった。
神が味方してくださったのである。
ラオデキヤの教会に対しては「あなたを口から吐き出そう」と神は言われた。
そこに神の目というか、神の要求しておられることと、私たちの目というものの違いを見ることができる。
私たちは仮に人々からどのように称賛されても、神から吐き出されるような存在であれば、これほど大きな打撃はない。
その反面、人からどんなに無視されても、どんな災いや困難が来ても、また暗黒の時代になっても、神と直結している門が開かれているということは、なんと幸せなことか。
ヒラデルヒヤの教会には、神の憐れみがあった。
それは彼らに力があったからではなく、ただ神の言葉にしがみつき、神のみを誇って生きていたからである。
私たちもイエス・キリストのみという信仰に立たなければ、キリストの名を否んでしまうことになる。
この世的には何もなしえなくても、神の前に自分自身を保ち、日々神の前にみずからをととのえ、クリスチャンとしての自分を迎えていくという働きが必要だと思う。
命というのはそういうものなのだ。
毎日毎日油を注がれていかなければ、命は消えてしまう。
日々御言葉の養いを受けることが大事なのである。
God Bless You!!
a:32 t:1 y:0