2020年9月8日(火)
『もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。』コロサイ人への手紙2章20節~23節
人間的ではないことの危険性を認識しよう。
非人道的であるということではなく、霊的生活の深さと激しさによって人間的ではなくなる、ということである。
「人間」ではないとは、主のものではないということだ。
私たちは、霊的な生活だけでなく、身体的な生活も送っている。
そして人間の身体をもつ人々の間で、永遠のものに関心を抱くと同時に一時的なものにも適切な関心を抱く世界に生きている。
私たちは、他人のたましいには深い関心をもっているが身体には関心がない、と言われるような生き方をする過ちを犯さないようにしよう。
一部の人からは実際にそう言われてきたからだ。
人間的になろう。
優しくなろう。
私たちにとってかけがえのない霊的な関心については何も知らない周囲の多くの人々と接点をもてるように、一定の世俗的で人間的な関心を養うことを意図的に行おう。
もっともすぐれた霊的指導者、もっとも祝福されて用いられたキリストの使節の中には、自然研究や音楽といった趣味をもっていた者もおり、それは本人たちにとっても周りの人々にとっても神の恵みであった。
そうした趣味は、神が造られた今日のすばらしい世界との接触をつづけさせてくれる。
それは他の人の関心をつかみ、その「餌」を通してその人をキリストと勝利へと導くために使える「餌」となってくれるのだ。
正しい種類の健康的な娯楽を恐れるべきではない。
友人とテニスや野球の試合を見たり参加したりするとき、チェッカーの勝負を見たり参加したりするとき、自分は本当は興味がなく、まだ教化されていない友人たちの世俗的な興味に譲歩して、「本当に価値あるもの」に時間を使えるようになるまで辛抱強く待っているだけなのだ、と誰が見てもわかるような態度をとってはならない。
これは勝利ではない。
それを禁欲主義、さらには欺瞞とまで呼ぶのはきつく聞こえるかもしれないが、ほかの人々にはそう見えるのであり、おそらくは当を得ている。
神は、勝利の生活の中で偏狭になるという危険から常に私たちを救い出したいと思っておられる。
もし私たちに音楽の才能があるなら、そのことを神に感謝し、自分たちの音楽を神の栄光のために用いていただけるよう、その才能を磨くことができるようにと祈り求めよう。
そしてこのことは、私たちが演奏したり歌ったりするのは賛美歌や聖歌に限る、という意味でもない。
ほかにも、サタンに属するものではなく、仲間と楽しく健全な形で親交を保てるように神が用いてくださる音楽はたくさんある。
また、人付き合いの礼儀にも十分に注意を払わなければならない。
人生の関心がもっぱら深い霊的なことに集中しているクリスチャンがしばしば批判されるのは、他の人々との社交的な関係において、ちょっとした礼儀や配慮に無頓着だということだ。
そうであってはならない。
これは私たちの主の不名誉となるからである。
キリストに勝利をゆだねているクリスチャンは、育ちのよさやマナーのよさ、真の優しさ、他人に非利己的な思いやりを示すという、ちょっとした日常生活の心遣いについては、上流社会の紳士淑女よりいささかでも不注意であってはならない。
王の仕事は、同胞への礼儀や適切な配慮を欠くことは絶対に要求しないからである。
チャールズ・G・トランブル
私たちはまだ、制限のある身体の中で生きており、 誰もが人生のその時々の状況に支配されている。
すりきれそうな神経や身体的な弱さや鬱状態を、自分は霊的ではないのだと勘違いしてはいけない。
祈るよりも睡眠をとるほうが、心を探るよりも身体を休めて気晴らしをするほうが必要なことがしばしばある。
ルイス・スペリー・チェイファー
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