2020年9月4日(金)の手紙

2020年9月4日(金)


『この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている」』ヨハネの黙示録1章17節~18節


1737年のある日のこと、私は健康のために馬で森へ出かけ、人の来ない場所で馬から降りた。
神に想いを馳せ、祈るために散歩するのがいつもの習慣だったからだ。

そのとき目にしたのは、私にとって神と人との間の仲介者としての神の御子の栄光と、偉大で完全で純粋で甘美な恵みと愛、柔和で優しい議遜さのたとえようもなくすばらしい光景だった。

この上もなく静謐で甘やかに見える恵みは、天よりも高いものにも見えた。
キリストの人格は、筆舌に尽くせぬほどすばらしく、あらゆる思いや考えを呑みこんでしまうほどのすばらしさを伴っていた。

思うに、それは一時間ほど続いたのではないか。
ほどんどの間、私は涙にあふれ、声をあげて泣いていた。

たましいが燃え上がり、空っぽで消滅したとしか表現しようのないものになるのを感じ、塵の中に横たわってキリストだけに満たされ、聖い純粋な愛でキリストを愛し信頼し、キリストによって生き、キリストに仕え、聖なる天上の純粋さによって完全に聖められて、純粋になるのを感じたのである。

ジョナサン・エドワーズ


私には、たましい全体にしみわたっていると思える深い平安があり、それは、私の願いはすべて神にあってかなえられた、という事実から来ていました。

最終的な結果から考えた場合、私には恐れるものは何もありませんでした。
強い信仰が、すべての難局や事件の上に神を置いていたからです。

今もっているもの以外は望みませんでした。
現在の心の状態では、ひと時ひと時の結果が神の目的を構成していると十分に信じていたからです。

聖められた心は常に神の摂理と一致しているので、私には神のみこころ以外に何の意志もありませんでした。
そうした摂理こそが、この意志の適切な真の表現なのです。

ジャンヌ・ギュイヨン


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