2020年9月30日(水)
『みことばのすべては真実です。あなたの義のさばきはことごとくとこしえに至ります。』詩篇119篇180篇
一部の熱心な人々が教えることの中には、気づきにくい微妙な危険性のあるものがある。
それは聖霊の内なる光と導きばかりが誇張されて、みことばがないがしろにされていることだ。
みことばは主が与えてくださったもので、主は今でもみことばによって働いておられるというのに。
これは重大な誤りであり、あらゆる種類の悪を生み出す根源である。
神のことばを脇に置いたとたん、私たちは心の中で語りかけてくる多くの声の誘惑にさらされることになる。
もはや私たちには、試金石も真実の基準も判断の規範もなくなってしまうからだ。
もしも私たちの判断が、神のことばが深く浸透したものでなかったら、自分の良心が問題とするもっと複雑なケースにおいて、神の御霊をどうやって知ることができるだろうか!
書かれたみことばなしに聖霊だけで満足してはいけないし、聖霊なしにみことばだけで満足してもいけない。
私たちの人生は、列車が平行な線路を進んでいくように、この二つに沿って進んでいかなければならないのだ。
敬虔な心でみことばとふれあうことによってのみ、主の声を聞くことができる。
聖霊はみことばによって、私たちの心に入って来られる。
あたかも、開いた窓からさしこむまばゆい光によって、太陽の暖かさが部屋を満たしてくれるように。
F・B・マイアー
今日のクリスチャンは、身をもってキリストとともに十字架につけられることなしに、ペンテコステの恵みと力とを求めている。
そして、見せかけの経験という結果に終わる。
カルバリの丘は、歴史的にも経験的にも、常にペンテコステに先んじている。
キリストの満ち満ちた豊かさに入る唯一の道は、主とともに十字架にかかることを受け入れることである。
L・L・レットガーズ
聖書のどこを見ても、肉欲から霊性に、また神聖なことにあまり関心のない生活から主イエスに対する熱烈に献身的な生活にいきなり飛躍することがある、とは説かれていない。
むしろ、信仰心が強まるのは常に成長であって、幼年期から成人にいたる人生の健全な発達と同じように、自然で普通のことであるべきなのだ。
ヘンリー・A・アイアンサイド
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