2020年9月13日(日)の手紙

2020年9月13日(日)


『さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた官官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。』使徒の働き8章26節~29節


すべての信仰者は自分の人生を、聖霊によって計画され、聖霊によって指定されたものとみなすべきだ。
ピリポやパウロ、ペテロのように、聖霊によるプログラム変更に心を開いていなければならない。

昨日、聖霊から聞いたことがわかったので、今日も明日も十分だ、と決めてかかってはならない。

そして聖霊は全世界的な働きのために、どのような陸軍や海軍の部隊よりもはるかに広く散らばらせて人を配置するはずだ、と知っているのだから、聖霊の目的にもっとも仕えることのできるところならどこへでも、移動も移転も、熱意をもって受け入れるべきである。

宣教の働きにおける親しい友人のことを思い出す。
それまでずっと神に大いに用いられてきた人だった。

ところが彼は、家を所有するようになった。
そのときから、自宅からの限られた範囲を越えた所へ行くようにとの召しはまったく聞こえなくなったのだ。
聖霊が管理する働きに対するなんという裏切りだろう!

聖霊を、ここまではいいがこれ以上は行けない、と鎖につないでいる。
どこに私たちを送ってよいかよくないかを、聖霊に指図している。

もちろん、そうしたことはすべて取りのけられる。
聖霊は、人間が負わせるそうした限界を受け入れたりなさらないからである。

ノーマン・B・ハリソン


もしも我々が御父のみこころを知っていたなら、我々に対する神の扱いに決して疑問をもつことはないだろうし、神の教えてくださることをすべて学ぶまでは、御手を放してほしいと望むことさえないだろう。

エドワード・デネット


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