2020年9月12日(土)の手紙

2020年9月12日(土)


『その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子供たちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。』創世記32章22節〜30節


「バッテリー・システム」によって霊的な生活を送っているクリスチャンがあまりにも多すぎる。
おかしなことを言っていると思われないようにどういう意味かを説明しよう。

私がまだ幼かった頃、母が時々、街に連れて行ってくれたことを微かに覚えている。
記憶が正しければ、その頃、路面電車のシステムの切り替えがあった。
電車の前か後ろのデッキにあるバッテリーが「生きて」いるかぎり、電車は走る。
だがバッテリーが切れたとたん、電車は急に止まってしまう。

それはとうてい満足のいくものではなかったので、システムの切り替えが行われたのだ。

キリスト教信者の中には、このシステムによって霊的な生活や奉仕を行っているように見える人がいる。
彼らはより深い霊的な人生に関する集会に行き、家に戻ったときにはすっかり変えられている。

三週間だけ!

あるいは画期的なクリスチャンの伝記を読み、本を閉じながら「ああ、人生はすっかり変わるぞ」と言う。
確かに変わる。

三週間だけ!

あるいは夜を徹して祈る。
事態はますます悪化しているので、彼らは事態を決定的局面に持ち込む。
他の人々が眠っている間に、夜のヤボク川の岸で格闘し、太陽が昇るとき、彼らは変えられている。

ただし三週間だけであり、その後は再び、どんよりした通常の状態に陥る。

なぜか!
彼らが、キリストではなく決定的局面を拠りどころとしているからだ。

クリスチャン生活は、決してバッテリー・システムによって動かされるものではない。
それは電気回路の原理によって動かすことになっている。

それがどういうことか、あなたはわかっているはずだ。
簡単に言えば、絶え間ない接触によって、絶え間ない電流をもらうのだ。

あなたも私も、電流に対しては何の力もない。
だが接触は確かに私たちの力の及ぶ範囲にある。

定期的な祈りの時間と、書かれたみことばによる日々の黙想、キリストへの献身、価値のない道からの分離によって「接触」を保つとき、天からの電流である聖霊、キリストのいのちが、絶え間なく私たちに伝えられるのである。

J・シドロー・バクスター


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