2020年8月9日(日)の手紙

2020年8月9日(日)


『イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。』ローマ人への手紙8章11節


私たちは、習慣の奴隷であるところが大いにある。

生まれつき自己中心であり、長い習慣の中で自分自身を喜ばせるために生きてきた。
ある種の肉的な傾向に対して長い間頭が上がらなかった。
おそらく、これはこうなるしかないんだ、と(いう悪しき考えに)安住してきたのだ。

「この地に継続して住んだ」カナン人がいる。
彼らは鉄の戦車をもっている。
肉的な性質の、もっとありがちで微妙な形を、いくつかあげてみよう。

それらは多くのクリスチャンの中に明らかに見られる「残存物」である。
あなたはいつも、ぶつぶつ文句を言っているクリスチャンであったかもしれない。
すねてふくれて、「悲しんでいるやさしい自分」をかわいそうに思っている。

けれど、そんなことをする必要はないのだ。
「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」、その方は、不平を言っているあなたのかわいそうな死ぬべき身体を生き返らせ、あなたは不平を言うのをやめさせる十字架の力を経験することになるだろう。

だが気をつけなければならない点は、その勝利は自動的に得られるものではないということだ。

「もし御霊によってからだの行いを殺すなら(あなたが協力しなければならないことに心に留めよう)」という場合に限って得られるのである。

あなたは自分のことを繊細で「過敏」と言っているのだろうか。
なぜそれを罪深い自尊心と呼ばないのか。

次に誰かから非難されたら、ただこう言おう。
「あなたは真実を半分しかご存じない。
もしも私のことをわかっていたら、もっと悪く言うはずですから」。

このことは十字架と調和する助けになるかもしれない。
少なくとも、それは真実だからだ。

肉的な性質は、状況が異なってさえいたら勝利をつかめたのに、と理屈をいう。
だがその状況とは内にあるものを明るみに出すだけだ。

この点について私たちはこう主張する。
「物事の永遠に変わらない実質は、それ自体の中には決してなく、それに対して私たちがどのように反応するかにあります。
もしも困難な時期に私たちが憤りを抑え、沈黙を保ち、内面の美しさで満たされているなら、それこそが重要なのです。

私たちを苦しめた出来事は、通り過る風のように記憶から消えていくでしょう。
けれども、その風が吹きつけているあいだ、私たちがどのようなものであったかは永遠の影響を残すのです」。(エミー・カーマイケル)

あなたは熱心なクリスチャンであるかもしれない。
だが、胸の高鳴るような力のパプテスマを受けたいという肉的な渇望に打ち勝っただろうか。

信じる前に「しるしと不思議」を求めてはいないだろうか。
肉的な性質は、神の御前においてでさえ栄光を求める。
神にそうした働慢な要求をする者たちは、十字架のもとに行くべき、非常に肉的で利己的な原則を生かしつづけている。

旧約聖書の儀式では、死を象徴する血は常に、御霊の象徴である油注ぎに先行していた。
私たちは、御霊が天におられる十字架につけられたお方から来ることを忘れているのだろうか。
血のしたたる五か所の傷のあるお方から。

その傷は今でも、肉的な傾向がその激情や情欲とともに十字架につけられたことを宣言している。

L・E・マクスウェル


あなたは神のダイヤモンドの原石の一つであり、神のために真に輝くことができるように、神はあなたを切断し、磨かなければならない。

ダイヤモンドを磨くにはダイヤモンドがいる。
あなたはほかのダイヤモンドによって、ほかのクリスチャンによって、霊的なクリスチャンによって切断され、研磨され、傷つけられる。

しかし、さらに磨かれてさらに完全に近づけば近づくほど、あなたの主のためにより輝くようになるのである。

G・マーシャル


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