2020年8月6日(木)の手紙

2020年8月6日(木)


『そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。」私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」』ヨハネの手紙第一1章32節~34節


覚えているだろうか。
ノアの時代に洪水が地を覆ったとき、ノアが状況を確認するために、一羽の鳩を放ったことを。

ほどなくして鳩は戻ってきた。
羽を休める場所が見つからなかったからだ。
七日たって再び鳩を放つと、また戻ってきたが、今度はオリーブの若葉をくわえていた。

三度目に放たれると、鳩はもう戻ってこなかった。
羽を休める場所を見つけたからである。

聖霊が鳩のようなかたちで聖なる主イエス・キリストの上に降ったとき、何が起こっただろうか。
四千年以上のあいだ、聖霊は、傷もなく汚れもない聖い人のところへ行ってその内に住むために、この地上をむなしく探しまわっていた。

ようやくここに、聖霊が留まることのできるお方がいたのだ。
聖霊は、言わばあの鳩のように、それまでどこにも休む場所を見つけられなかったのである。

ノアの鳩は、どうして休むことができなかったのか。
とまることのできる身体はたくさんあったのではないだろうか。

そうだ、水はいわば腐肉であふれていた。
遺体が水面のいたるところに浮かんでいたが、羽を休める場所にはとうていなりえなかったのだ。
そして聖霊はこの長い歳月、世界を静かに覆って、道徳的には腐肉の人間、それ自体みじめな、堕落した、神を畏れぬ罪深い生き物だけを見てきたのだった。

確かに、バラムやサウルのような人の上に臨んだことはあったが、聖霊は彼らから去った。
ダビデやイザヤのような人の上に臨んだこともあったが、彼らから去った。

だがここに、しみのない聖いお方がいた。
聖霊はその方のもとに来て、その上に留まったのである。

イエスは完璧で罪がなく、そして聖いお方なので、聖霊は来てその内に住んだ。
イエスは道徳的に完全であるという点で、御父の喜びであり、神の子羊であり、神の御子であった。
そして何よりも、聖霊を受けたこの方は聖霊によるバプテスマを授ける。

すなわち、あなたの罪を取り去り、聖霊を与えてくださるのだ。
なんとすばらしいことだろう!

人々の罪を取り去ることのできるお方は、聖霊をも与えることができる。
彼らのたましいの内に住む主のいのちを享受するために必要な力を与えることができるのである。

W・T・P・ウォルストン


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