2020年8月5日(水)の手紙

2020年8月5日(水)


『あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。』マタイの福音所6章21節


私たちはキリスト・イエスにあって、もはや現世のいのちのために働くのではなく、すでに得たいのちを起点として働く。

私たちが大いに努力しているのは、肉の中にある現実のいのちを、主にあって用意された理想のいのちと一致させることではない。
むしろ、キリストの内に隠された私たちの本当のいのちを、私たち自身の内にある実際のいのちにまで縮めることである。

そして福音が私たちを召しているのは、私たちには不可能なものをキリストのうちに見て、それに向かって手を伸ばすことではなく、むしろキリストにあって私たちのために達成されたものを見て、それを我が物とし、それによって生きることなのだ。

キリストとともによみがえった私たちの霊という初穂は、すでにキリストとともに栄光へと運び上げられ、私たちのいのちは「キリストとともに神のうちに隠されている」。

それなら、私たちの心が、私たちの宝のあるところにはない、などということがあるだろうか!

私たちの愛に火がつき、上に向かって燃え、この世の衣装をすべて脱ぎ捨てても、ついには完全に主に集中するようにはならない、ということがあるだろうか。

なぜ今でも、墓の毒気と腐敗とをまとわりつかせているのか。
それは、この世的なもの、罪深い愛着、そういったまとわりつくすべてのものであって、道徳的な死の付属物ではないか。

しかし、私たちの主はそこから私たちを贖い出してくださったではないか!

白い衣をまとって主と歩み、さらに「復活と終わりなきいのちの朝の爽やかさを主とともに吸いこむ」ことは、今すでに私たちのものなのである。

A・J・ゴードン


回心する前は、私は十字架を目標にして労していたが、その後は十字架を起点として労してきた。
そのときは救われるために労していたが、今は救われているゆえに労しているのである。

ドワイト・L・ムーディー


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