2020年8月24日(月)の手紙

2020年8月24日(月)


『しかし私は言った。私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある。』イザヤ書49章4節


こうした箇所は何を意味しているのだろうか。
それは、期待していたことをまだ成し遂げていないが、それでも私の義認は主とともにあるということだ。

私は長いこと労してきたが、見たところ、成果をあげてはいない。
にもかかわらず、私の正しさは神とともにある。

言いかえれば、自分の働きにおいて正しいと認められていようがいまいが私の正しさは主とともにある、ということだ。
主は私の正しさであるだけではなく、私の報いでもある。

私がヤコブの家とイスラエルの子らに何ももたらすことができないのは事実だが、それでも神が与えてくださる報いを受け取ることになると確信している。

それだから、私の心は満ち足りている。
不平を言うことはないし、悲しむこともない。
それが私たちの主の態度である。

親愛なる友よ、このことが私たちに示しているのはただ一つ。
自分の仕事や物事や人々と、直接の関係をもつべきではないということだ。
私たちは神とのみ、直接の関係をもつことができる。

仕事や物事や人々との直接の関わりを保とうとする場合、万が一思いどおりにいかなかったり困難に遭遇したりすると、傷つき悲嘆にくれることになる。

だがもし私たちの直接の関係が神とのものだけであるなら、人に拒絶されたり、困難に直面したり、敗北と見えるものに苦しむときも、まだ喜んでいられるのである。
私たちは神と直接関係があるので、損も得も私たちに降りかかることはない。

ただ一つ注意しなければならないことがある。
それは私たちの正しさと報いは神とともにあるかどうか、ということだ。
もしも私たちの正しさが神とともにあるなら、私たちの報いも神とともにある。

ウォッチマン・ニー


手中に何があろうとも、私たちはそれを心の外に置きつづけるように気を配らなければならない。
それが私たちとキリストとの間に立ちはだかるといけないからだ。

マシュー・ヘンリー


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