2020年8月19日(水)の手紙

2020年8月19日(水)


『私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」』イザヤ書6章8節


明け渡した人生の報酬は、神がそれを用いてくださることだ。
明け渡した人生は神が用いてくださる人生だということは、クリスチャンの経験の歴史が明らかにしている。

ロバート・M・マクシェインは用いられる者になりたいという願望にとりつかれ、神の贖いの目的と力の道具となるために人生をささげた。

ウィルフレッド・グレンフェル卿は、自分が神の国に属する者となったのは、救いの約束によってだけでなく、神に用いられるという期待によってである、と語った。

明け渡した人生は、重要なものか目立たないものかにかかわらず、自分の居場所を決めるのは神の特権であると認めることだ。

重要であるかそうでないかにかかわらず(病院を経営することであろうと病院の床を磨くことであろうと、結婚しようとしまいと、外国に行こうと故郷に留まろうと)、務めを選ぶのは神の特権である、と。

器具がなくては、科学者は研究ができず、外科医は手術ができない。
道具がなくては、職人は作業できない。

神もまた、ご自分の器具や道具、活動の手段を求めておられる。
「だれを、わたしは遺わそう。だれが、わたしのために行くだろうか」と呼ばわるお方の心には、伝えられることを待っているメッセージがあるが、伝える者が一人もいない。

福音は準備ができているのに、それを知らせる伝道者がいない。

イザヤが、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と神に自分を明け渡したとき、メッセージを伝える使者が現れ、メッセージが伝達の手段を見出した。

器具が着いて、神の活力が働かされはじめたのだ。
人が自分を明け渡すことで、神の力が解き放たれる。

「私は主にすべてをささげる」とデービッド・リビングストンは言った。
「残念なことに、与えられるものはほんの少ししかないが」。
しかし、神がそれをご自分のものとしてくださるなら、小さなささげ物など何一つない。

ウィリアム・ブースは、「私に関するすべてのことは常に神のものだった」と告白している。

キリストは、彼らの明け渡しの手本であり、力であった。
主があなたにとってもそうであるように。

ジョン・マクビース


私たちが自分のものではなく、主のものであるなら、私たちの行いすべてがどんな目的に向けられるべきかは明らかだ。

私たちは自分のものではない。
だから思考や行動において、自分の理性や意志に導かれてはならない。

私たちは自分のものではない。
だから、肉の性質にとって都合がいいものだけを求めるべきではない。

私たちは自分のものではない。
だから可能なかぎり、自分自身や自分の利益を忘れるようにしよう。

私たちは神のものである。
だから、神のために生きて死のう。

私たちは神のものである。
だから、神の知恵と意志にすべての行動を支配させよう。

私たちは神のものである。
だから私たちの存在のすべての部分を、唯一の正当な目標として神に向けようではないか。

ジャン・カルヴァン


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