2020年8月18日(火)
『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。』ローマ人への手紙8章2節
父なる神によってなされ、御子によって成し遂げられたことが現実となり、個人的な経験となるのは、そのことが私たちの生活において生き生きとした経験となるように、内に住んでおられる聖霊に同意し、意識的に信仰をもって聖霊に目を向けるときのみである。
聖霊は、私たちがそのこと(すなわち、私たちの古い人、私の古い自己、自己の誇り・・・実のところ、生まれたときにアダムから受け継いだもの、私がキリストから離れているものすべてが十字架につけられたという知識)を信仰によってつかむまでは、何もすることができない。
この真理を受け入れるとき、生活の中でそれが事実であることはわからなくても、聖霊にはこのことを私たちにとって実際の経験とすることができるし、そうしてくださる。
私たちがこの真理に立っているかぎり、聖霊は私たちがキリストとともに十字架につけられるという個人的で実際的な経験に導くことができる。
キリストとともに十字架につけられたので、私たちが信仰によって生きるかぎり、罪の身体は何の影響も及ぼすことができない。
だが信仰が休眠状態になり不活発になると、たちまち活発になって信仰者の生活を支配しはじめる。
今、神の前に頭をたれ、キリストとともに十字架につけられたことを感謝しようではないか。
自分の感情には関係なく、感謝することを始めるのだ!
そうなるまでに一月かかるか、一日かかるかはわからないが、はっきりわかっていることがある。
それは、神の子どもであれば誰でも、信じて感謝をささげることでその信仰を表し、まだ経験していないかもしれない事実を日々、神に感謝するようになったとき、聖霊がその人をすばらしい個人的な経験へと導いてくださるということだ。
そのとき、その人は心からこう言うことができる。
「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法から私を解放したからです」
L・L・レットガーズ
ここに、聖なる生き方の貴重な秘訣がある。
私たちは「罪に対して死」に、「神に対して生きて」いるということだ。
罪の支配は終わった。
死んだ者に対して、罪はどんな関わりがあるだろうか。
まったくない。
そういうわけで、信仰者はキリストとともに死んだのだ。
キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえり、新しいいのちの中を歩んでいる。
尊い恵みの支配の下に生き、「聖潔に至る実を得て」いる。
罪のうちに生きるために、あふれるばかりの神の恵みから口実を引き出す者は、クリスチャンの信仰の土台そのものを否定している。
「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか」。
そんなことは不可能だ。
それはクリスチャンの立場全体を否定することになる。
クリスチャンとは毎日、毎週、毎月、毎年、罪を犯しては悔い改め、罪を犯しては悔い改めることを繰り返す者だと想像することは、キリスト教の評判をおとしめ、クリスチャンの立場全体をゆがめることだ。
クリスチャンは自分の内に肉の性質があるから罪を犯し続けるしかないと言うことは、キリストの死をその偉大な観点の一つにおいて無視し、ローマ人への手紙6章~8章に書かれた使徒パウロの教えを偽りだと言うことである。
C・H・マッキントッシュ
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