2020年8月10日(月)の手紙

2020年8月10日(月)


『あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。』コリント人への手紙第一16章2節


ここで、クリスチャンのささげ物について言われているのは、いざというときにそこから与えることができるように蓄えを用意しておくことだ。

まず初めに主にささげる十分の一に似ているが、それは、レビ人に与えることになっている。

こうして私たちがささげたお金は取り分けられて蓄えられ、ここから引き出して、貧しい人々に与えたり、書物やトラクトによって真理を普及するために用いたり、主のしもべの働きを援助するために与えたりすることができるのだ。

もしも聖徒たちが神に対して忠実に、あまねくこの原則に従って行動するなら、与えるという問題はきわめて単純になり、さまざまな必要に対する資金は豊かになる、と私は確信している。

親愛なる兄弟(今は主のもとにいる)がかつて私にこう語った。
「主の袋」と呼ぶ袋を持っていて、習慣的に取り分けておいたものをその中に入れていたのだが、それが空っぼになったことは一度もなかったというのだ。
袋の中にはいつも何か入っていて、必要なときにはそこから引き出したそうだ。

もしも聖徒たちが、週の初めの日に、収入に応じて、忠実に取り分けておくようにしたら、どれほど多くの貴重な蓄えが、多くの要求をかなえられることだろう!

どれほど多くの貧しく疲れきった人々を、神の民の気前よさによって喜ばせることができるだろう!
どれほど多くの困難に押しつぶされそうになった主のしもべが新たな勇気を得て、感謝を抱いて進みつづけられることだろう!

そして主があがめられるのではないか。
その結果、新たな恵みが与えられ、天の窓が開かれるのではないか。
それを誰が疑うことができるだろうか。

気がかりなのは、この件に関してごくわずかか、あるいはまったく責任を感じていない者が非常に多いのではないか、ということだ。
どうして責任を感じないのだろうか。

この聖句が「あなたがたはそれぞれ……蓄えておきなさい」と言っていることに注目しよう。
律法ではなく、恵みのもとでの責任なのだ。
そしてまた、蓄えておくことは、レビ人の場合と同じように、受け取る者たち(たとえ貧しくても)の特権でもある。

力に応じて、ある人は少なく、ある人はそれより多く蓄えるかもしれない。
だが、蓄えることからまったく免除される者はいるだろうか。

もしも私が貧しくて、その「極度の貧しさ」の中からわずかなものを主にささげたとしたら、そのせいでさらに貧しくなるのだろうか。
主に対する献身と忠実さのゆえに私が貧窮に陥ることを主はお許しになるだろうか。

そんなことはなさらない。
主は喜んでささげる者を愛し、主をあがめる者を重んじてくださる。

賢者はこうも言っている。
「あなたの財産で主をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。
そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる」。

誰もがみな、家に箱か袋を用意して、収入があるたびにその一部を取り分けておくことを習慣としようではないか。
主に対するように自由な心で喜んでそれを行い、主がそのことを十分に喜んでくださると確信し、主ご自身が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたことを思い出そう。

また、十分の一は強要されているわけではないから、それだけの量をささげるか、ささげないかは問題ではない、とは思わないようにしよう。
十分の一とはヤコブの基準であり、また十分の一はレビ族への分配分でもあった。

しかし律法のもとでイスラエル人は律法の要求に応えるためにさらに多くささげなければならなかった。

ではなぜクリスチャンはふんだんに与えないのだろうか。
恵みはそのことを強要しないが、もしも心がキリストの愛の陽光の中で生きているなら、律法のもとにある場合よりも惜しみなく、蓄えたものを明け渡さないだろうか。

イスラエル人が与えることに忠実であった場合、主はその人を祝福し、その籠とこの蓄えを満たされた。
そしてクリスチャンへの恵みは別の秩序に属しているが、主はこの責務に忠実である者には栄誉を与えてくださる。

A・H・ルール


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