2020年7月6日(月)
『あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。』マタイの福音書5章16節
私たちはキリストのうちに完全に隠されなければならない。
この世が見るのはもはや私たちではなく、私たちの内に生きておられるキリストであるようになるためである。
世の人々が私たちの内に古い人しか見ることができないなら、どのようにして神のメッセージを伝えることができるだろうか。
ある靴のセールスマンは、自分が売っているのと同じ靴を常に履き、売ろうとする相手すべてに、常にその靴を見せていた。
それと同じように、私たちもキリストのことを証ししようとする人々に対して、常にキリストを見せなければならない。
そしてこのことは、自分は無であり、主がすべてだと進んで認める段階に達して初めてできることだ。
毎日意識的に経験することにおいて、主が私たちのすべてでなければならない。
そうでなければ、死にゆく世界に、彼らの必要すべてを主がどれほど豊かに満たされるかということを示すことは、決してできない。
宣伝している商品を見せられなければいけないのである。
このことは、キリストが私たちの内でご自分のいのちを実際に生き、その結果として日々の生活における私たちの品性、日々の奉仕における私たちの力となることが、私たちが自分を明け渡した瞬間から可能になるだけでなく、実際にそうするべきなのだ。
これは「キリストとともに神のうちに隠されている」いのちである。
これは私たちが文字どおり無であり、主がすべてであるいのちである。
このいのちを通して、この世は御父を啓示するお方を見ることができるのである。
J・E・コナント
自分がキリストのいのちが流れ出る水路であることを知り、感じることで、クリスチャンは非常に気高くなる。
ジョージ・V・ウィグラム
この世への聖書
キリストはほかの手ではなく私たちの手で
今日、みわざを行い、
ほかの足ではなく私たちの足で
人々をご自身の道に導き、
ほかの舌ではなく私たちの舌で
ご自分の死に方を人々に語り、
ほかの助けではなく私たちの助けによって
人々をご自身のそばへ招かれる。
私たちは、
無関心なこの世が読む唯一の聖書、
私たちは罪人への福音、
私たちは嘲る者への信条、
私たちは、行いと言葉によって与えられた
主の最後のメッセージ。
どうなることでしょう、
もし活字がゆがんでいるなら、
もし印刷がぼやけているなら、
もし私たちの手が、
主の働き以外の仕事で忙しいなら、
もし私たちの足が、
罪の誘惑がある場所を歩いているなら、
もし私たちの舌が、
主の唇が蔑むことを語っているなら。
主を助け、その再臨を早めることを、
どうやって望むことができるでしょうか。
アニー・ジョンソン・フリント
a:103 t:1 y:0