2020年7月4日(土)の手紙

2020年7月4日(土)


『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。』箴言16章9節


聖霊の導きに自らを託していても、束縛の強い状況に陥って苦しんでいるクリスチャンは少なくない。
自分が受けている導きは神からのものであろうと思ってはいても、確信がもてずに不安を抱いているからである。

もしもこれらの導きに従っていないと、神に不従順になったのではないかと恐れ、時には、聖霊の導きに従わなかったから「聖霊を悲しませた」と想像してしまう。

これはすべて不必要なことだ

神の導きははっきりした導きであることを心に刻みこもう。
「神は光であり、神には闇がまったくない」。

100パーセント明らかではない導きは、神からのものではない。
つまり、これは私たちの意思が完全に神に明け渡されている場合の話だが。

もちろん、明け渡していない意思から暖味さが生じることもあるだろう。
だがもし私たちの意思が完全に神に明け渡されているなら、神の子どもとして、いかなる導きも神からのものだと前もって確信してから、それに従うことができるという権利がある。

私たちには御父のところに行って、こう言う権利がある。
「天の父よ、私はここにおります。
何よりもあなたのみこころを行いたいと願っています。
どうか、あなたの子である私に、それを明らかにしてください。

もしも私が導きを感じているこのことがみこころであるなら、それを行います。
けれどもそれがみこころであるかどうか、昼のように明らかにしてください」。

もしそれがみこころであるなら、天の父はそのことを昼のように明らかにしてくださる。
あなたは神が明らかにしてくださるまで、そのことをする必要はないし、すべきでもない。
そしてそれをしなかったからといって自分を責める必要もないし、責めるべきでもないのである。

神は、ご自分の子たちが御前で責めを受ける状態にあることを望んでおられない。
私たちがすべての不安や悩み、心配、自責の念から解放されることを願っておられる。

地上の親は誰でも、その方法を知りたいと我が子に頼まれれば、それを明らかにしようとするだろう。
それ以上に、私たちの天の父は明らかにしてくださる。

そして神が明らかにされるまでは、それを行わないことで私たちが神に不従順なのではないかと恐れる必要はまったくないのである。

私たちにはどんなふうに導きを与えてくださるかを神に指図する権利はまったくない。
それはたとえば、すべての道を閉ざすように願うとか、しるしをくださいと願うとか、私たちの指が聖書のどこかの箇所を指すようにとか、いろいろな方法で導いてくださるように願うことだ。

私たちのすべきことは知恵を求め、期待することであり、それがどんなふうに与えられるかを指図することではない。

R・A・トーレー


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