2020年7月27日(月)
『真夜中になったとき、主はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。』出エジプト記12章29節~30節
血が注ぎかけられたところには、その結果として救いがもたらされ、血が見られなかったところには災いが起こった。
神がその夜、エジプトの地を通り抜けてさばきを下されたので、「死者のいない家がなかった」。
イスラエル人の家にも死んだものはいた。
すなわち子羊・犠牲・身代わり・いけにえである。
エジプト人の家でも同じく死んだ者がいた。
すなわち長子である。
イスラエルの家では、長子の代わりに子羊が死に、それによってその夜、多くの家庭に平安がもたらされた。
あなたはイスラエルの家庭の一つを訪ねて、その家の長子である若者に、こう訊いていたかもしれない。
「どうだい、今夜の調子は?
平安はあるかい?」
彼はこう答えただろう。
「100パーセント平安だよ!」
私たちは次にこう訊く。
「気分はどう?」
間違いなく、彼はこう答えるはずだ。
「自分の感情には頼らず、主のことばに頼っているんだ。
門柱に血が塗ってあるからね。
あそこに血をつけたのは父親の仕事だったけど、ぼくもちゃんと塗られたかどうか気をつけていたから大丈夫。
このことにはすごく興味があったから、見逃せなかった。
もし血があそこになかったら、今夜、ぼくの命はなくなっていたんだからね。
だけど血は確かにそこにあるし、主は「わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す」っておっしゃったんだ」。
では、クリスチャンよ、あなたは安らいでいるだろうか。
100パーセントの安らぎがあるだろうか。
あなたの平安の土台はその血であって、あなたの気分ではない。
平安は感情ではなく、情緒でも経験でもない。
むしろ、神の要求が神の子羊によって満たされており、神がその尊い血を重んじられるという事実から流れ出るものだ。
イエスの血は神のまさに記憶に達し、接触した。
ヘブル人への手紙10章17節にこう書かれているからである。
「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」。
「雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができない」が、イエスの血にはできる。
その価値は神だけが知っておられる。
あなたも私も、キリストの血の価値を知ってはいない。
価値があることを確かに認めてはいるものの、私たちの評価はきわめて低く、適切ではない。
神はキリストの血の価値を完全に知っておられ、その値打ちを完壁に評価し、あなたと私にこうおっしゃっている。
「その血を信頼せよ。それを避け所とせよ」。
私たちが「主よ、その血を信頼します」と答えることができれば、神はこうおっしゃる。
「あなたを、その血の価値についてのあなたの評価ではなく、わたしの評価に従って扱うことにする」。
まさにそこにこそ、平安がある。
キリストの血に対するあなたや私の評価ではなく、神の評価にあるのである。
では、神の評価とはどのようなものだろうか。
神はキリストの血をきわめて高く評価しておられるので、神にとってそれに基づいて行うことよりも偉大なものは何もない。
神はご自分の大切な子が流した血に基づいて、あなたをさばきから救い出し、栄光へと導いてくださる。
そして何よりも、その血はあなたにすばらしい平安と神に対する限りない信頼をもたらしてくれるのだ。
W・T・P・ウォルストン
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