2020年7月22日(水)の手紙

2020年7月22日(水)


『また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。』ヘブル人への手紙3章18節~19節


神は、どういう意味で「ご自分の安息」と言われたのだろうか。
それは、彼らが自分たちの安息に入るのではなく、神ご自身の安息に入るということである。

ああ、なんと幸いな区別だろう!

では、この疑問の根元的な究極の解決に急いで移るとしよう。
神はご自身を私たちに与えてくださり、すべての賜物において、ご自身を与えてもおられるのだ。

ここに、人が作り出して人の心や道義心に起源をもつ、地から生じるすべての宗教と、上から啓示され、天から下ってきた真理・救い・いのちとの区別がある。

どの宗教も探求し、約束していることは同じだ。
光・正義・平和・力・喜びである。

ところが人の宗教は、被造物の光と被造物の正義、人間の限られた不完全な平和と力と幸運しか考えていない。
人間から始まって上へ向かうからだ。

しかし神は私たちにご自身を与え、ご自身にあってすべての賜物を与えてくださっている。
だから神の賜物は、どれも完全で神聖なものだ。

神は私たちに義を与えてくださっているだろうか。
神ご自身が「私たちの義」、アドナイ・ツィドケヌーである。

神は私たちに平和を与えてくださっているだろうか。
「キリストこそ私たちの平和」である。

神は私たちに光を与えてくださっているだろうか。
主が私たちの光である。

神は私たちにパンを与えてくださっているだろうか。
主が私たちの食べるパンである。
「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」。

神ご自身が私たちの力なのだ。
神は私たちのものであり、あらゆる賜物と祝福においてご自分を与えてくださる。
聖霊によって、私たちはキリストと一つであり、神の御子は私たちの義、いやそれどころか、私たちのいのちなのだ。

あなたはこれ以外に現実の臨在を望むのか。
私たちは共に「神と生きている」ではないか。
すなわち、神は私たちの内に住んで生きておられ、私たちは神の内に住んで生きているではないか。

使徒パウロが次のように言い表しているよりもっと現実的な、畏敬と恵みに満ちた臨在と内住とを得ることができるだろうか。
「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」。

あるいは、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」。
あるいは、十字架にかけられる前に主ご自身が最後の祈りで父なる神に言われたように、「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます」。

このように神はご自分の安息を、私たちの安息として与えてくださっているのである。

アドルフ・サフィア


クリスチャンの人生には二つの段階がある。

最初は信仰者が回心後、神がさせようとしておられる仕事をしようと努める段階だ。
第二は、何度もつらい失敗を重ねたあと、自分の仕事をやめて神の安息に入り、そこで御父に自分の内で働いていただくことによって、仕事のための力を見つける段階である。

多くのクリスチャンが理解できないのが、このように自分の仕事を休むことである。
これを、受け身で自分本位の楽しみの状態、人生の義務を軽視することにつながる静的な瞑想の状態であり、聖書の求める用心深さや闘いには不向きだと考えているからだ。

安息への神の招きを、なんと完全に誤解していることだろう!

神の内で真に休むことは、最高の活動に身を任せることだ。
私たちが働くのは、神が私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」からである。

神の安息に入ることは、自己努力をやめること、神の働きを信じて完全にゆだねきることなのである。

アンドリュー・マーレー


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