2020年7月20日(月)の手紙

2020年7月20日(月)


『わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。』ヨハネの福音書17章23節


聖霊は個人的所有となる。
つまり、信徒ひとりひとり専用のものとなる。

このことはイエスとの関係には決して当てはまらなかった。
イエスは歴史上の人物であり、厳密に指定できる場所で生まれ、生活し、語り、働き、動きまわったからだ。

もしも人がイエスのおられた場所にいたなら、主の臨在を享受できただろう。
ほかの方法では、主とともにいることはできなかった。

使徒たちは「主とともにいる」ために選ばれた人々だった。
主の召命に応えて、主の教えを聞き、主の力強いみわざを目にし、主を知るようになって、主の証し人となるために故郷を離れ、仕事を捨てて、主とともに放浪するようになる必要があった。

そのような状況にずっと適応できるのは、一種の人工的、修道院的な生活様式だけであろう。

けれども聖霊は、ご自分とともにいるように、と私たちに呼びかけはしない。
ご自身が来て、「私たちとともに」いるのだ。

私たちが生活しているところにはどこにでもおられて、愛する者たちをとりまく環境に、ご自身を適応させる。
それゆえにキリスト教信仰にとってメッカはなく、聖なる寺院も、信仰者たちが礼拝し奉仕するお方を見出すための集会もないのである。

たとえ信仰者たちが地の果てまで散らされても、彼らとともにいて、彼らの内に住み、彼らの内に歩んでおられる。
生けるキリストが、彼らが個人的に親しくわがものとしているその御霊によって、そうしておられるのである。

だがこの内住の御霊、私たちの霊とともにおられる方は、ただ私たちとともにいるだけではない。
形造り、変革する力であられる。

主によって教えられていたにもかかわらず、弟子たちは、ごく親しい者でさえも、イエスの宣教の終わりまで、動揺しやすく、臆病で頼りないままだった。
イエスは外側からの影響力にすぎなかったのである。

それなのに聖霊が来られると、この同じ弟子たちがたちまちのうちに忠誠と勇気と確信を体現する者となった。

確かにイエスは彼らのもとを去られたが、内におられる主の御霊が、彼らを新しい人にしたのだ。
このように聖霊は、すべての信仰者の内で働くことを望んでおられるのである。

性質を変えようとする自己努力は、すべて徒労に終わる。
妄想や猥褻さ、悪習慣にふけることによって記憶の壁にかけられているおぞましい絵、敵意と嫉妬と醜い自己追求が原因でまとわりつく良心の阿責。

これらのものをたましいから一掃しようとして、人はどれほどむなしい努力を重ねてきたことだろう。
どれほど多くの自死が、その過酷な鞭打ちから逃れようとした絶望的な努力を物語っていることだろう。

いや、いのちの中に入って来て、罪が大きな打撃をもたらした場所に純潔な思いと聖い心を分け与えることができるのは、神の御霊だけなのだ。

罪の捕虜を解放する。
このことを成し遂げる力を、聖霊は備えておられる。
喜んで成し遂げてくださるのである。

ノーマン・B・ハリソン


神が私たちを愛しておられること、その御子のみわざによって義としてくださることを理解しなければならない。

私たちはもはや、神の前で罪を意識することはない。
神ご自身が、ご自分の目の前から罪を取り去ってくださったからだ。

私たちは、キリストによって神の義とされていることを知っている。
私たちの罪に関わるすべてのことにおいて、完全に神の栄光を表した主イエス・キリストに結びついているからだ。

だから心は御父の前で、その愛を自由に享受することができる。

ジョン・ダービー


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