2020年7月17日(金)
『たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。……喜びます。』ピリピ人への手紙2章17節
あなたの働き、それをするように召されているあなた、あなたの奥深い性質 「心の中の隠れた人」が攻撃されても、驚いてはいけません。
そうなるべきなのです。
いちばん重要なのは、驚かず、そのことを変だと思わないことです。
そうしないと敵の術中にはまってしまうからです。
私たちの愛する主をあがめようと決意した人が、たちまち多くの矢の標的になる。
そうはならないということがありえるでしょうか。
あなたの働きは完全に主をよりどころとしており、主なしでは一瞬たりとも行うことができません。
その事実が主により近く歩み、常に霊の交流をもつことを要求します。
このことだけで、敵にはいったい何ができるのかを説明するには十分です。
それには純粋な働きが必要です。
何の理由もなく、私たちの神は「焼き尽くす火」と呼ばれているわけではないのです。
苦しみにあっても驚いてはいけません。
それは十字架の道の一部だからです。
マルコの福音書9章12節に「人の子……(は)多くの苦しみを受ける」と書かれています。
主の行かれた道をたどるなら、私たちも苦しみを受けなければならないのです。
一年一年、進むにつれてこのことが真実であることを見出すでしょう。
そしてどんなこともこれよりたやすいのです。
鞭打たれることも、これよりたやすい。
あなたはこれまで新約聖書を、さまざまな形で苦しみについて述べているところに注意を払いながら読み通したことがありますか。
そうすることですばらしい教えを受けることができます。
聖書は喜びに満ちていますが、苦痛にも満ちており、そして苦痛は当たり前のことと考えられているのです。
「不審に思ってはいけません」「この上もない喜びと思いなさい」と。
私たちは主の歩みを避けるのではなく、その後に従うように定められています。
私たちの苦しみが、もし私たちの愛する人々によってもたらされるとしたらどうでしょう。
主の苦しみは、主の愛しておられた人々によってもたらされたのではなかったでしょうか。
まったく、聖書とはなんという書物なのでしょうか!
その力強い慰めにたましいを浸しさえすれば、道を大きく誤ることはありえません。
勇気を失ってしまうことは決してありません。
「このためにこそ、あなたがたは召されました。
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」のです。
十字架の道を進んでいくにつれて、主の喜びがやってくるということをあなたは知るでしょう。
この地上で誰ひとりご自分の思いどおりになさらなかったお方がこうおっしゃったからです。
「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。……·喜びます」。
礼拝といけにえに添えられる、注ぎのささげ物となるこの機会は、決して小さくない主の愛の贈り物です。
それは、あなたが苦もなく選択することのないもの、苦もなく与える以上のことを求めることなのです。
ですから喜びましょう!
あなたが与えることを主が望んでおられるものを、あなたは主に与えようとしているのですから。
それは、主がおできになることをあなたに示す機会なのです。
エミー・カーマイケル
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