2020年7月14日(火)
『幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。悪しき者は そうではない。まさしく 風が吹き飛ばす籾殻だ。それゆえ 悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに 立ち得ない。まことに 正しい者の道は主が知っておられ 悪しき者の道は滅び去る。』詩篇1篇
神は、人を今の場所に植える際に、絶対に間違いを犯さない。
美しく力強く育つことのできない霊的気候に、私たちの一人たりとも置くことはない。
私たちをどこに植えても、恵みの流れを送って元気を回復させてくださる。
だから私たちの環境がどうであっても、神に従う生き方をすることができるのだ。
私たちを取りまく罪の夜の闇が深ければ深いほど、私たちの生活や行いから流れ出る光は、ますます明るくゆるぎのないものとならなければならない。
友好的な影響や好意的な状況の只中にいれば、誰でもうまく生きることができるはずだ。
だが、キリストを好まない人々に取り囲まれているときに、キリストに対して忠実で真実であることは、二重の意味で重要なことである。
J・R・ミラー
人々の行いの先にある、行いすべてを管理する力に目を向け、好意であろうと迫害であろうと、助けであろうと妨げであろうと、主から来るものすべてを受け入れることを学んできた人は幸いだ。
そのような人は、この世の混乱と騒動の只中で、またサタンの力が存在していても、全き平安を得る秘訣を獲得している。
エドワード・デネット
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