2020年6月4日(木)
『それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。』コリント人への手紙14章26節
さて、教会の集会についてだが、その力となる真の秘訣は何か。
それは才能か、雄弁か、みごとな音楽、それとも印象的な儀式であろうか。
いや、それはキリストのご臨在… イエスがともにおられることを楽しむことだ。
主のおられるところは、すべてが光であり、いのちであり、力である。
主のおられないところは、何もかもが闇であり、死であり、荒廃なのだ。
イエスのおられない集まりは、たとえ、どれほどすばらしい説教や魅力的な音楽や感動的な儀式の影響力があったとしても、それは墓場にすぎないのである。
これらのものがすべて完全に存在しているとしよう。
それでもイエスを献身的に愛する者はこう叫ばずにはいられないのだ。
「(ああ、)だれかが私の主を取って行きました。
どこに主を置いたのか、私には分かりません」。
だが一方、イエスの臨在が実現化したところでは… 人が主の声を聴き、御手の触れるのをたましいが感じるところには、力と恵みがある。
たとえ、他人の目に映るものがすべてかぎりなく弱いものであったとしてもだ。
これらのことをクリスチャンの心に留めさせ、熟考させよう。
公の奉仕において主の臨在を実現させるように、彼らに注意を促そう。
そしてもし彼らが、自分たちの集会に主がいてくださると確信をもって言えないなら、それには何らかの理由があるはずだから、謙虚になって主を待ち望むようにさせよう。
主はこう言われた。
「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」。
しかし、主による成果を得るためには、主の臨在という条件が整っていなければならないことを、私たちは決して忘れてはならないのである。
C・H・マッキントッシュ
会合が終わったらすぐにお開きにするべきだ。
人々が引き上げるずっと前に、主がすでに立ち去っておられることがしばしばあるからだ。
エドワード・デネット
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