2020年6月30日(火)の手紙

2020年6月30日(火)


『地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。』列王記第一19章12節


すべての肉なる者は、沈黙の中においてのみ、「かすかな細い声」を聞くことができます。
主の声を聞く際にクリスチャンが経験する困難のほとんどは、この内面の静けさがないことから生じています。

私たち自身の内なる喧騒が、主の静かな語りかけをかき消してしまうのです。

私たちは風や地震の中に主の声を求めて耳をすませ、その轟きが私たち自身のどよめきよりも大きく鳴り響くことを期待します。

そして落胆するあまり、主はまったく語ってくださらない、と文句を言います。
その間もずっと、主の愛の「かすかな細い声」は、静けさを待っています。
その中でこそ、細い声は聞かれるからです。

この瞬間にも、主の声を渇望している人がたくさんいることを私は確信しています。
ほんのわずかの間、主の前に静まりさえすれば、すぐに主の声を聞くことができるでしょう。

外側の静けさは、絶対に欠かせない内側の静けさを常に確実にするわけではないかもしれませんが、それでもこれがクエーカーすなわちフレンド派の沈黙の集会の土台となる理念です。

昔の聖徒たちはみな、神との真の交流のためには静まることが必須条件であると主張し、後に続く人々に、それを深めるように熱心に勧めてきました。
それで今日の信徒たちはみな、その価値を知っているのです。

ハンナ・ホワイトール・スミス


平安のうちに語り、動き、活動せよ。
あたかも祈りつつあるように…。
実は、これが祈りなのである。

フランソワ・フェヌロン


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