2020年6月29日(月)
『なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。』ローマ人への手紙14章17節
神とキリストによって喜ぶことができるまで、真の喜びはない。
悪人や放蕩者でも、多少は笑うということを知っている。
しかし、その笑いがどのようなものかといえば、「鍋の下の茨がはじける音のよう」ではないか。
燃え上がってもすぐに消えてしまう。
罪を楽しむとはどのようなものかを、私は知っている。
だが、そのあとに続く痛みが、得られるはずのどんな満足より一万倍辛いものであることを常に見出してきた。
しかし、神によって喜ぶ者には、他人が干渉できない喜びがある。
それは彼らから奪い去る者のない喜びであり、たましいはキリストを通して神と和解し、イエスが心の内に住んでおられるという十分な信仰の確信に達する。
そしてそのたましいが自らを顧みるとき、主をあがめ、たましいの救い主である神によって喜ぶのである。
こうして、「ザアカイは…喜んでイエスを迎えた」。
「宦官は… 喜びながら帰って行った」。
「看守は… 神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」と語られているのである。
ああ、友人たちよ、自分の罪が赦されていることを知る者の喜びはどのようなものか。
自分のために「すべてのことがともに働いて益となること」を知りつつ、先に目を向けて、自分の前に永遠に続く幸福を見ることは、人にとってどれほど祝福されたことだろうか。
それは「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」である。
ああ、神があなたがたすべてを、この喜びにあずからせてくださるように!
ではここで、神の国について考えをまとめてみよう。
神の国は「義」であり、「平和」であり、「聖霊による喜び」である。
この三つが心に置かれているとき、神がそこを治め、そこに住み、歩んでくださる。
被造物は、全能者の息子または娘なのだ。
けれども友人たちよ、この王国に参与するようにされた者のなんと少ないことか!
あなたがたはそうされているだろうか。
それならあなたがたは、物乞いではあるが、王である。
世界のすべての人々よりも幸せだ。
心に天の国があるからだ。
そして身体の外殻が崩れ落ちるとき、たましいは神と会い、たましいは平和の世界に入り、永遠に神とともに幸せに過ごすのである。
私は死を恐れる者が一人もいないことを願う。
もしも恐れているのなら、実に残念だ!
あなたはイエスのもとに、自分の主のもとに行くのが怖いのか。
あなたは「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と叫んでよいのだ。
あなたは神が自分の友であることを知って、喜んで自分の道を進みつづけることができる。
死ぬときも御使いたちが無事に天国まで運んでくれるだろう。
ジョージ・ホイットフィールド
あなたが越えなければならない浅瀬は二つしかない。
病と死だ。
そして、キリストがただ会ってくださるだけでなく、自ら来てあなたとともに進み、あなたを抱いて運ぶことさえしてくださる、という約束がある。
ああ、それなら、あなたの前に置かれた喜びのために、あなたを迎えようと岸で待っておられる人なるお方(万物の上にあり、 とこしえにほむべき神でもある)の愛のゆえに、自分の競走を、忍耐をもって走り続けよう。
サミュエル・ラザフォード
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