2020年6月2日(火)の手紙

2020年6月2日(火)


『またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。』エペソ人への手紙1章11節


私たちに必要なのは、事態がどのように見えていても、あらゆることを通して、あらゆることに関して、あらゆることの背後で、神が「ご計画のままに行う」、神が進めてくださる、という確信と信頼を取り戻すことである。

神は、絶え間なく働かれ、決して道からそれることなく、途方もない活力で、「すべてをみこころによる計画のままに行って」おられるのだ。

時おり、私たちは自分の周囲を見回して、神は何か行ってくださっているのだろうかといぶかしく思うことがある。
そして祈りのときに、神に何かをしていただこうとする。
だが私たちに必要なのは、神が行っておられるということを理解し、神の行いに協力することなのだ。

もしかしたら神は、私たちがしてほしいと望んでいること、あるいは神がなさるべきだと思っていることを、私たちの求めているやり方では行っておられないかもしれない。

神が用いるべきだと私たちが思っている手段… すなわち私たちのわずかばかりの手段や私たちのわずかばかりの働きを、神は用いておられないのである。

神は、神がなさるべきだと私たちが思っていることをなさらないかもしれないが、ご自分の目的を容赦なく、根気強く一貫して追求しておられる。

そして神の民に必要なことは、神が永遠の初めから進み続けてこられたまっすぐな道のりに導かれることなのである。

神は進んでおられる。
私たちの時代においても進んでおられるので、それは多少なりともこの世界で見ることができる。

しかし、目に見えようが見えまいが、事実は残るのだ。
そうでなければ、私たちの聖書は正しくなく、パウロは間違っていることになる!

私は常に次のことを喜んで認めている。
それは、パウロが世界を旅してまわることをやめて、異教徒の中でのすべてのめざましい活動を縮小したのは、神が永遠の昔から進みつづけてこられたことを目にしたときであり、パウロが、神の永遠のご計画を含んだこの手紙をエペソの信徒たちに書き送ったときだったということだ。

それはなんとすばらしいことではないか!
私たちが自分の仕事を取り上げられるときも、またかけずりまわって何でもできたことができなくなっても、おそらくは身体面で何もできなくても、神は進みつづけておられるのである。

時おり、私はこう思うことがある。
私たちが止まるとき、神も止まらなければならない。
私たちが進まなければ、神も進むことができないのだ、と。

いや、とんでもない。
神は進みつづける、進みつづけておられるのだ!

願わくは私たちが、神が進んでおられることを理解し、それに加わることができるように助けたまわんことを。

T・オースティン=スパークス


私たちは、副次的な原因に目を向けるという罠に絶えず陥っている。
私たちは神をすべてにおいて理解しているわけではないのだ。

ああ、朝から夜まで私たちに起こることの中で、父なる神の声が聞こえず、御手が見えない出来事など一つもないという事実に、私たちがもっと敏感であるなら、どれほどの恵みの気配に私たちは包まれることであろうか!

そうすれば人も情況もみな、父なる神の御手の内にある代理人や道具として、受け止めることができるだろう。
私たちのために備えられた主の杯の中にある材料として。

それによって私たちの思いは厳粛なものとなり、私たちの霊は穏やかにされ、心は和らげられるのである。

C・A・コーツ


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