2020年5月30日(土)
『父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」』ルカの福音書15章31節~32節
これは、壮麗な城に行った夢を見た男の話である。
男は城の入り口で歓呼して迎えられた。
入城し、次々に部屋に入っていくとその都度、さらなる喜びをもって歓迎された。
ついに男は、偉大な君主の御前に出て、大喝采を受けた。
キリストを信じる者には、それ以上のことが起こるのだ!
父の家に足を踏み入れる放蕩息子は、私たちの救いの本質を表している。
私がそこにいるのは、ただ私にとっての益になるだけではない。
神は私をそこに置くことに喜びを感じておられるのだ。
愛は、私を友とすることを喜ぶのである。
もしクリスチャンの必要を基準としてキリストのみわざを量るのなら、人間的な喜びがあれば十分だろう。
しかし、神の愛を基準として量るなら、父の家とそこにおける喜びでしか基準を満たすことはできない。
神の家がいっぱいになることが、父なる神の大きな喜びなのだ。
だから、「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」。
キリストを信じる者を迎えることが、こんなにも満ち足りて完全な喜びに満たされているのは、こうしたわけなのだ。
今やすべての信徒はそこに家がある。
私たちは喜びに満ちた報酬に、想いを馳せている。
それは最後に私たちのものとなる。
私たちは最終的にその報酬を得るために、 救われているのである。
J・B・ストーニー
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